とし坊のあしどり (ギターとスケッチを中心に) 戦前と戦後、東京と大阪、 ギターとスケッチの人生です。 ヨーロッパ知と日本知の狭間で揺れ動く 人生とも云える。 社会生活よりも、個人として生きている人生、 お金には、まったく縁のない人生です。 私の人生は、退職後に、 自足されたと感じています。 WebSite では、個人の生活と思いが中心です。 ネットでは、家庭や親族などの事情は、ほとんど出しません。 現実の生活に関係した方には、ご迷惑かけたくありません。 現在は、生活絵日記 が、中心。 このページは、自分の現実と気持ちを偽らず正直に、 記述しています。 (最近の生活へ) |
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人生の想い (人生の基本姿勢) |
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とし坊の独りごと (美と哲学) |
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スケッチとギター (趣味のこと) |
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満80歳になりました。これからの人生は、おまけの人生。今年で、この日記を、取りやめます。振り返れば、我が人生は、何もなく、さっぱりとしものでした。これも良いかな。(笑い) (2019年2月) | ||
2010− 6− 9作成 2013− 8−31補足 2013−11−16補足 2014− 1−10補足 2014− 7−25補足 2016− 7−31補足 2019− 7−20補足 2020− 2−10補足 |
BGM; 「愛と死を見つめて」 |
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誕生から 高校生時代 まで |
1939年 東京都豊島区椎名町で、6人兄弟姉妹の一人として、 誕 生。 女姉妹の中で、生まれました。おまけに直ぐ上に生まれた兄が、直ぐに亡くなり、その代わりとして、生まれてきたように思われました。亡くなった兄は、見るからに健康そうで、可愛かった。それに対して、私は腺病質そうでした。生まれながらに、身体が弱かった。このことが、一生ついて来たようです。現在は、本来の身体に反して、なぜか長生きしているのです。 生家の隣に、2才年上の足の悪い、腕白坊主がいました。ずーっと彼に苛められていた記憶があり、そのことがトラウマのように、陰に日向に、一生ついて回っていたような気がする。 ぼくの人生には、いつも何かに苛められている、苛められっ子、弱者の感覚が、生き続けている。 |
ぼくは弱者の立場から、常に弱者と共に生き、 弱者を応援する人生でありたいと願っている。 |
東京都 豊島区 誕生 から 終戦まで 小学校 入学 |
戦前のことは、全体として懐かくも良い記憶として残っている。東長崎第三 国民学校 に入学しました。その学校で、本当に入学式した記憶は、ありません。暫くして、近くの西武線の側の、お寺の寺子屋で、小学校の勉強した記憶があります。 やはり一番の記憶は、戦争のことです。東京空襲の時に、夜空に浮かぶB29と焼夷弾の光、今でも覚えています。家族で、近くの畑で、下につっぷしていました。上を、B29が編隊で、焼夷弾をぱらぱらと、落としてゆきました。その時は、綺麗な光に、見えました。 この頃、加藤隼戦闘隊の映画 を見ました。 終戦直前には、日本の飛行機が打ち落とされて、家近くに落ちてきて、二階の窓から見ていたこと。日本軍による、残骸の回収作業を、秘密の中に、全部見届けました。 椎名町での記憶は、これぐらい。 直ぐに終戦となりました。戦後の想い出は、進駐米軍の拾輪車から、振り撒かれる、チュウインガムなどのお菓子を、拾い集めて、楽しみ食べましたね。 終戦の数か月後に、練馬に引っ越しました。 この頃の想い出を、空想と事実をまぜて ムサビ通信の課題として制作した 寓意画へ 都内で終戦前の出来事と、練馬での戦後の出来事が、複層している想い出です。 |
東京都練馬区 小学生 |
終戦後は、その頃は田舎風であった練馬で、のんびりと過ごしました。 低学年の頃は、父親に連れられて、銀座や池袋に、散歩に行ったことがあり、唯一東京都内の想い出です。池袋の映画館で、ターザン映画を楽しみました。ジョニー・ワイズミュラーの「アー、アーアアー」の声は、今でも、忘れません。 父親の仕事の工場、敷地内の社宅で、小さな庭には、さつまいも畑があり、芋のつるを、食べたのを覚えている。工場は、石綿工場でした。このことが、後年、高齢期になり、問題点があったことが、分かりました。 低学年の頃は、家の近くで、ベーゴマとか、メンコに夢中でした。ベーゴマ研ぎを、近くの十三間(じゅうさんけん)道路で、竹竿の先に、ベーゴマつけて、研いでいました。 小学校では、戦後教育で育つ。担任の先生の影響で、昆虫採集が大好き。麦畑やどぶ川で遊びました。関東ローム層の上に、広大な麦畑と、小川が流れ、氷川神社や小学校がありました。 漠然とした将来志望は学者でした。 父親の仕事で、6年生の時、昆虫採集の箱に、アゲハ蝶を入れて、東海道線、特急つばめ号に乗りました。その時は、直ぐ明日にでも、東京に帰れる気持ちで、汽車に乗りましたが・・・。。 それが、大阪暮らしあれから何十年続いたのでしょう。 いつもいつも、老年になるまでも、東京に帰りたいという気持ちをもっていました。 小学校の最終学年に、引っ越したので、卒業は、大阪の小学校です。 大阪の学校に移って、一番の印象は、みんな誰も、ませた大人の顔をしていたこと。やはり、商売の街だなと思いました。 |
大阪市 西区 中学生 |
中学では、学期テストでは、パットしなかった成績でした。普段は勉強しないのに、実力テストでは、いつも上位なのが、ひそかな自慢でした。 身体が弱く、体操は休み勝ち。プールはいっさい入らず。一生の かなずち (トンカチ) となりました。 隣の同級生の影響か、音楽が好きになる。ベートーベンの生涯をテーマにした 長編小説 ロマン・ロラン作 「ジャンクリストフ」 読破。 なんとなく、人生が楽しく、明るい思い出は、中学生までです。 |
大阪市阿倍野区 高校生 |
家業が、思わしくなくなりました。暗い印象しか持っていません。何も残りませんでした。 大学進学校の高校の勉強には、少しも身が入らなかった。部活も何もしていない。 奨学金をいただいていましたが、一時、小学生ひとりの家庭教師のバイトもしていました。 後半には、なにやら進歩的?なグループの仲間に入りました。演劇の好きなグループでしたが、私には、演劇は、老年期になるまでも、門外漢です。人間関係のドラマが、好きでありません。文学にも関心持ちはじめた頃ですが、小説よりも、詩や短歌などの、韻文が好きです。 グループの方とは、長い間、友達だった方もいます。しかし後年、私が右よりと思われて、この進歩的なグループの方は、離れました。私は、右でも左でもありません。 (笑い) |
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18才 幾つかの大学入試を申し込んだものの、結局、1回も受験会場に行けなかった。 5件の企業の就職試験に合格したが、高校で斡旋された企業に就職。 就職後も、2年間、大学進学予備校に通いました。 大学への夢を、断ち切れなかったのです。 受験は、まぼろし。 以後、書籍関係の企業に、以後40年間、勤めました。 |
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在住地 &年代 |
スケッチ & ギター |
師のことなど | HP ページ |
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大阪市阿倍野区 18才〜 (会社員スタート) |
クラシックギターを始める | 大阪の縄田政次先生に半年ほど、基礎を習う。マンドリンとギター両方で活躍の関西大御所の先生でした。 | |||
27才、結婚。 1男1女。 この年のヒットメロディは、 BGM 「愛と死を見つめて」 想い出のメロディです。 | |||||
大阪市阿倍野区 30才前後 |
パステル画を描いてみる | 大阪パステル作家協会(松田登先生)に1年ほど通う。扇町のYWCAでデッサンに励む。 心斎橋のカワチのグループ展に1回出品。 アジサイの絵があります。⇒ |
私の昔のスケッチ (YouTube) |
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大阪府堺市 31才 転居 |
20年間の大阪市内の生活に別れを告げて、新天地へ。 近代的な北ではなく、南の自然を選択しました。 |
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大阪府堺市 31才〜50才 (昭和の終わりまで) |
暫しの間の 仕事人間 暫く、ギターと絵画を忘れる、仕事人間でありました。 しかし当時流行った猛烈社員というのとは全然違います。 また、労働者なんていう概念とも、違います。 ぼくは、仕事というものを、この世にもし神というものが 存在するとすれば、 神から与えられた 聖 な る 賜 物 と捉えていました。 世間一般の労働感とはかけ離れていました。 報酬を要求するものでないと考えていました。 働くことによって、人類に何らかの貢献できるのだと、 自分に云い聞かせていました。どこの会社でも良いし、 個人で仕事できるのなら、それでも良かったのです。 そうやって、成り行きで入った会社で、何十年が あっと云う間に過ぎてしまいました。 今から思えば、何だったのかなと思います。 利益を追求しなければならないという、会社人間には 向いていなかったです。立身出世を求めるでなく、 生真面目に、もくもくと働いただけです。 生活の糧を得るためだけではないと、自分に言い聞かせつつ、 一般のサラリーマン生活には、溶け込めない存在だった と思う。 |
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ぼくにとって、企業という社会について、思うこと 子供の頃から、本に対する憧れは、人一倍ありました。気持に押されて、書籍関係の企業で40年も過ごしてしまいました。世界中の本に触れることが出来たのは良かったと思っています。入社から、暫くは、内務業務の作業に携わりました。一番の思い出は、仕入部門で、入荷する洋書籍のデータ取りなどの処理業務でした。これが、ぼくの学問への憧れ心を、くすぐってくれました。ぼくは、継続書籍というジャンルでした。当時は、ヨーロッパ哲学はなやかな時、Husserlliana というフッサールのシリーズの哲学書が、つぎつぎに発表され入荷したこと、内容は分からずとも、わくわくしたことを、今でも鮮明に記憶しています。後年、哲学の勉強して、現象学を知った時に、あの時の、Husserllianaを、思い出しました。入社してから、5年ほどの、この頃が一番に、想い出深いです。内部業務の時代が、比較的長かったので、社内の伝票業務合理化もどきもしました。オフコンで、BASICアプリをいじったりしました。その頃、Windows の歴史が始まりました。NEC-PC9800 とか、IEとか、それから、ぼくは Windows一辺倒です。家では、ポケコンを楽しみました。後年、企業内で後半の経験は、販売や店頭などの営業職にも付きましたが、良い思い出よりも、嫌なことがたくさん起こり、蛇足にしか過ぎないと、今では感じています。そもそも本来、大学に行くつもりだったのが、高卒で社会人になってしまい、その後、大人になれない子供の心でずーっと過ごして来ました。しかし、職業生活は、ぼくの子供の頃に抱いていた夢を満足するものでなかった。中学3年の時、[中学生の友] という雑誌に、その会社の社長の立身出世の記事があり、影響を受けたこともあり、その会社に決めたのでしょう。共に、働いていた同期の友や部下など、仲良くしていたり、楽しいことがたくさんありました。今でも、お付き合いしている方々が、たくさん居ます。しかし、[中学生の友]から得たものと、長い間の現実に働いた企業の姿は、まったく違うものです。後から見れば、企業の姿は外見と内部が違う、貧弱な組織に思えました。現在も名前だけは、残っていますが実情は、知りません。これらのことから、一般的に、職業的な社会生活などは、ぼくには相応しくなかったと、思えるようになりました。結果的に、ぼくは、ひとりで何かを創ることを、生業にすれば良かった、と今さらに思います。 年取ってから、放送大学やムサビ通信で勉強したり、自分のやりたい趣味に没頭している。現在は、過去の嫌だった職業生活のマイナス部分への気持を、一生かけて回復する作業をしている。時間は、あまりありません。(2011-3-31)(補筆 2016-3-11) |
これより、横浜市での単身赴任の生活が始まりました。 単身赴任からの方が、充実した人生となりました。 20年ほどブランクの後、青年期に覚えた絵とギターを再開しました。 |
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神奈川県横浜市 単身赴任時代 (1991〜95) |
水彩画(1年間) | ヨコハマ美術友の会 (住田茂先生)で水彩画 勉強。 (住田茂先生は本来はパステルが専門) |
古い 関東スケッチ集 古い 関東の葉書絵 |
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クラシックギター(1年間) | 東京目黒の加藤ギター教室(加藤誠先生)で、新しいギター音楽の世界を教えていただいた。GGサロンで発表会。 | |||||
パステル画(1年間) | ヨコハマ産経教室(松本孝司先生)パステル画を楽しむ。 | |||||
これより、堺市での生活に戻りました。 | ||||||
大阪府堺市 1996年〜 |
パステル画(1〜2年間) | 大阪パステル作家協会(松田登先生)復帰。 | 昔の 関西スケッチ |
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1997年 | 風景スケッチ(1〜2年間) | 毎日文化サロン(西上ハルオ先生)のスケッチ会入会。 (西上先生は、ペン画とアニメが専門) |
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1998年 | 風景スケッチ(1〜2年間) | 日曜画家協会でスケッチ会を楽しむ。 ホームページ start (妻の気功術の紹介ページが最初) |
懐かしの 関西スケッチ |
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1999年 春 60才、定年退職 ぶらり散歩 京阪神スケッチ展 |
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2000年 妻 57才、がんで急死 気功の指導者でした。 病室で過ごした2か月の日々。「愛と死を見つめて」 その儘に。 |
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1999年後半 60才 |
室内の油絵(数ヶ月) | サクラアートサロン(大塚伸一先生)油絵を初めて習う。 ひと月ほどで、止めざるを得ない事態となりました。 |
(退職後、直ぐに、個展開催 生涯ただ1回の個展) |
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2000年 61才 |
ギター合奏 | 渕本一弘先生でギターの基礎。 附属の「北野田ペアレンツ」ギターアンサンブルで楽しく半年過ごしました。 老人ホームなど訪問。自分と同世代の方々が、涙を流して喜んでくれるのに、感動した毎日でした。 |
懐かしの 関西スケッチ 小さな旅〜 昔の山のスケッチ |
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これより、堺市と逗子市の往復生活が始まりました。 | ||
堺市&逗子市 2001年 〜2002年 62才 〜63才 |
逗子は、毎月10日ほどスケッチ中心の生活。逗子&葉山は、 散歩と自転車。鎌倉、横須賀、三浦半島、横浜、東京へは、 電車利用。描くところが、いっぱいです。生きてる間に 描きつくせないでしょうね。 堺では、家から自転車と散歩で行ける南大阪と、南海高野線沿いを 電車で、スケッチ&散歩。 夏の酷暑や冬の厳寒、雨の日などでスケッチ不可能の時は、 勉強とギターの録音。 |
昔のスケッチ |
2003年 〜 2004年 64才 〜 65才 |
2003年10月に放送大学に入学。 人生最後の勉強。知を愛すること。人生の本当を知りたい。スクーリング授業で 行った先で時間を取り、素敵な風景をスケッチ。 逗子美術協会 2003年入会。風景スケッチ会のために入会したが、直ぐに廃部。 現在は、何らの活動に参加していません。 逗子文化祭展に1回だけ出品。 逗子スケッチ会(和田久松 先生)2003年〜2004年で水彩画を勉強。 クリスチャンの先生の優しい指導が良かったです。退 会 横須賀の三浦半島スケッチ会(佐藤 陽 先生)2003年に入会。温厚で、 わけ隔てない、ご指導が素晴らしい。 先生には、革新派と日本的感性との両方が感じられます。ヨコスカでトップの 水彩画家です。 これより三浦半島の風景のとりこになり、一人でも海岸の岩場などを歩き、 スケッチしている。 三浦半島のスケッチ集、 (放送大学レポートの為に2007年夏に纏めたもの。) 三浦スケッチ集pdf BGM;スカボロフェアに乗せて、 YouTube 「三浦半島の風景」 三浦半島とは 横浜市金沢区から南〜鎌倉市滑川から東の範囲の半島部で、 横浜市金沢区、横須賀市、三浦市、葉山町、逗子市、鎌倉市東部です。 |
昔のスケッチ 放送大学学び舎 放送大学スケッチ |
2005年 〜 2007年 66才 〜 68才 |
2007年9月に 放送大学を卒業。待望の学位をいただきました。 卒業研究は、パステル画家オディロン・ルドン研究。 4年間は長かったですが、人生に立ち向かうのに、教養という武器を手に入れました。 (2007.10.31) |
湘南スケッチ 南大阪スケッチ PowerPointへ |
2008年 69才 |
ギター演奏CD曲集、7集(全170曲)完成(過去の演奏集)(2008.3.28) ギター演奏CD曲集、新曲シリーズ no.1(19曲)完成 (2008.5.25) ギター演奏録音ファイル(Mp3) 4〜12月で、合計144曲となった。(2008.11.24) 「現代パステル協会展」パステル画の唯一の公募展に入選の知らせ。以後、3回出品。(2008.12. 8) |
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2009年 70才 |
2月に、古稀を迎えました。生まれつき虚弱体質だった人間が、なぜここまで生きてしまったのか不思議です。せっかくですので、運命に甘えて、もっともっと生きてみようと思います。 |
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2010年 71才 |
平成22年2月22日で、アルバイト仕事を退職しました。 これで、束縛されることから解放されました。憧れていた完全自由人間です。 これから逗子での生活が主体になります。堺は、勉強部屋、ギター録音、思い出のトランクルームとします。 横須賀文化祭に出した作品に、佳作入賞の知らせがあり、驚き、且つ嬉しく思いました。この歳になって、生まれて初めての賞状とご褒美を頂きました。(2010.11.23) |
湘南スケッチ 南大阪スケッチ |
2011年 忘れられない年 72才 |
3月11日東北関東大震災発生。 たまたま堺に居る日に、東北関東大震災発生。東京都知事の出馬会見 を見ていて、その流れで震災報道に続いた。都知事の含蓄のある 決意表明で、このままでは、日本に近く非常なことが起こる。 その声が終わるか終らないかに、ぐらーと揺れた。堺でも揺れた。 恐ろしいほどのタイミングだった。 これから、せめて気持だけでも、世界の片隅で、世間にまみれない 一人の自然人を目指したいと、この歳になって思います。 東北の方々のような自然人です。地球上には、いろいろな人々 が生活して来ました。概して、ヨーロッパやアジアの大陸の人々は、 肉食系で戦いにつよく、自然を我が物にして近代文明を築いてきました。 日本のように環太平洋の人々は、優しい心を持ち、 自然と共生する人々です。丁度、縄文人のように。 ぼくは、東北の人々に縄文人の姿が見えてしまう。これからは、 この優しい人々の心を、すべての地球人に伝え育てていかないと いけない。地球上のすべての人々が、小さな民族や主義主張の枠を 超えた発想を持って欲しい。このままでは地球そのものが 滅んでしまうでしょう。 (2011-3-31) 今年は、運命的な年に感じた。干支の兎歳の6回目の巡り年であった。 何か記念になることを、と思い、美術雑誌2誌に、スケッチを掲載してもらった。 facebook 始めました。(2011.12.31) |
自然は美しいが、 時に間違いを起こす いつも変わらぬ春 とし坊のスケッチ手帳 |
2012年 73才 |
2012年4月に武蔵野美術大学造形学部通信課程に入学 おそらく生涯最後のお勉強になると思われます。生きてきて、何も残らない人生よりも、なにか納得するものを求めます。(2012-3-20) 日本を巡り、世界が非常に厳しくなってきた。人間とは? 痛切に考えさせらるこの頃である。日本とは、人間とは、何なのだろうか。(2012-12-27) いよいよ高齢者に本格的に参加してきた思いです。体型も、腰曲りスタイルになって、坂道登るのがつらくなりました。来年は、気持ちだけでも頑張って生きて行こう。(2012-12-30) |
2013年 逗子市に住所変更 74才 |
腰痛が発生。今年から、杖デビューです。 ますます老人らしい姿になりました。(2013−1−23) ムサビ三年次の後半(10月)から、休学を選びました。(2013-7-15) 残り少ない、かけがえのない人生 Only One My Life 持続可能な、普通の生活 Sustainable MyLivelihood 激動の中に、ムサビ通信最後の、夏スクーリングが、無事終了しました。(2013-8-15) 堺の家の整理を始めた。あらゆるものが、10年前のままの状態で、保存(?)されている。 何とか、端から整理(=捨てる)を始めた。(2013-11-7) 5月2日付で、住所地を逗子市に変更した。(2013-5-2) 暫く、関西と関東の往復生活して、土地に固着することよりも、固定の生活者と、バガボンド(放浪者)的な、ふたつながらの視点から、世の中を見つめてきました。しかし、体力的にも、移動生活の大変さが、身に染みて感じてきた、今日この頃です。(2016-3-11) |
最近のスケッチ ムサビ通信 今日のスケッチ (日々のスケッチ) 今日の1枚 |
2014年 75才 |
横須賀中央病院で、尿管結石の破砕手術。(2014-1-24) 2月に、後期高齢者となりました。現実の肉体は、じわじわと変化しています。 2014年3月に 武蔵野美術大学造形学部通信課程 を退学しました。 ひと時のチャレンジでしたが、たいへん勉強になりました。 健康と死をテーマに、勉強している。 生活は、杖で行動可能な範囲限定です。 スケッチは、クレヨンで、ますます小型になって行く。(笑い)(2014-7-20) 年末になり、一大事発生。歯の治療に突入。 今年も、ついに身体の各種不具合の修理が、先送りになってしまいました。(笑い) |
ムサビ通信退学 今日のスケッチ 生活絵日記 ホームページ |
2015年 76才 |
放送大学を、完全に卒業した。(2015-1-24) 堺の家の、家族や自分の古い本の一部を、ネット古本業者に、送った。(2015-3-2) 体調不良発生した。体調不良の原因は、昨年と同じ、結石、5日に破砕手術となる。 (2015−6−3)検査の結果、再手術。 再手術は、ようやく1週間後に、無事大成功。破砕の技術は、医師によって、 巧拙があるように思える。(2015-7-24) 8月前半10日間、堺へ。家前の立木など、ひどいことになっていた。立木の伐採整理を、 業者にやってもらった。(2015-8-12) ビデオの廃棄処理を、始められた。逗子でも、ギターを復活して、ぼちぼちと弾いている。 演歌だけだ。指が、ぜんぜん動かない。 ミニ花壇も、手がけた。体調は、相変わらずだ。年賀状に取り組んでいる。 カジュアル版の方には、サイトと、facebookと twitterの QRコードを入れてみた。 何とか、実人生とネットと、真実の連携できないかな。ぼくの一生の研究課題だ。(2015-11-25) |
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2016年 77才 |
喜寿とか云う誕生日、小さなショートケーキだけで、何事もなく、過ぎた。自分の人生は、なにも達成されていないし、これからも、このままで行くしかないよな。(2016-2月)(笑い) 2月に、堺への移動、バス乗り遅れ事故。3月に、自動車にひき逃げされもどき、の事故。入れ歯の紛失。それに、昔からの病変の痕跡の再確認を検診中。アクシデントと、病院廻りで、忙しい。あきれ返る。 脚力の減退により、ますます歩行が苦しくなってきた。スケッチ行きよりも、家でのギター練習時間が、多くなってきた。指も、動きにくい。ネットで、楽しんでいる時間が多い。 これらの事象に負けないための手段として、逗子のいろいろな学びのイベントに、つとめて参加するようにしている。認知症に向う速度の減速にも役立つだろう。 結構、忙しい。(^o^) (2016-3-11) 半年間、何をしていたのだろう。逗子のイベントには、たくさん参加した。8月、10月、12月と、堺の家に行った。身体は、いよいよ厳しくて、だんだんと移動するのが、億劫になる。堺の家では、片づけに専念している。本類を、捨てて良いのから、順番に、古本業者に送っている。重要な書類とか、想い出のものは、逗子に移動している。 今年も、あっという間に、過ぎてしまった。身体は、内臓は気をつけているが、メタボシンドロームは、ますます進行。足の筋肉の減退をおおきく感じる。曲がった腰を、支える力が、弱くなった。来年は、足の筋肉を強くする運動をしよう。(2016-12-31) |
ホームページ 生活絵日記 「YouTube」 逗子ひとびとふれあい 2016年 |
2017年 78才 |
2月に、78才になった。歳が、ひとつ増えるごとに、身体が老人に変化するのが、 分る。 ------------------------------------------------------------- 堺では、思い切った断捨離の実行。業者に来ていただき、30年程たまった 手つかずの物。子供の物の以外を、思い切って捨てた。しかし、まだ半分も 出来ていない。 介護保険を、要支援1で申請したところ、要支援2で、認可された。1と2の違いが、 良く分からないけれど、自分の思っているより、重度というのかな。(2017-6-24) ------------------------------------------------------ 長い間、お世話になり、楽しんで来た、三浦半島スケッチ会を、退会させてもらった。 今は、逗子の、家の近辺を、自転車か、バスで、行ける範囲で、スケッチを 楽しんでいます。勉強会など、室内の人物スケッチが、多くなりました。 今年の春夏は、不順な天気で、身体には厳しかった。相変わらず、病院と薬は、 欠かせない生活。ようやく、秋めいて来たが、短い秋で、すぐに冬になるようです。 家で、ギターを弾く時間が、多くなりました。ほとんど、昭和歌謡です。 夜寝る前には、you tubeで、大好きなピアソラを、聴いています。 先日の演奏会で買った、バンドネオンと生ギターのCDを聞きながら。 唯一のクラシック練習曲、オブリビオンを、弾けるようになりたい。(2017-9-26) ------------------------------------------------------- 今年も、表面的には、明るい生活を、送って来た。しかし、肝心のことを、 さし置いて、一年が過ぎてしまった。また、年末になり、身体が極端に 悪化してしまった。来年は、こうしようという、気持ちが湧いてこないのは、 どうしたものか。(2017-12-31) |
生活絵日記 生活絵日記 「YouTube」 逗子散歩 近く遠く 2017年 |
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2018年 79才 |
年末に、お話しがあった、逗子の広報のひとつ、瓦版の新年初号に、 自分の文と絵を、 載せていただいた。嬉しい話であった。去年の暮れに、原稿を決定して おいたのが、良かった。去年の暮れから、体調がひどくなってきた。(2018-1-15) --------------------------------------------------------- 3月25日から、たった5日間の堺滞在。短期間なので、片づけは何も出来なかった。 ひとつ、家内の図面を、作成したのが、収穫。かなり詳しく、家具の配置や、 物の置き場を、正確に記録できた。写真も撮った。 少しだけど、萩天などのさくらのスケッチも、出来た。(2018-3-30) --------------------------------------------------------- 最近は、身体が自分のものでないようで、外は、完全に二本杖がないと、歩けない。介護保険ランクは、要支援2のまま。いずれにしても、使う気はない。身体のあちこち、何とかしなければ。 (2018-7-6) --------------------------------------------------------- 久しぶりに、堺に行ったが、酷暑のため、当日まで行くかどうか悩んだ。案の定、家の中では、熱中症になることだけを回避すること。外のスケッチは、勿論、何も出来なかった。ただひとつ、10月の、萩原神社の作品展の、用意をした。出品は、今年が最後になるかもしれない。(2018-9-1) --------------------------------------------------------- 毎年楽しみにしている、萩原神社の秋祭り作品展に、今年は、出せなかった。直前になり、体調がひどくなり、堺行きを取りやめた。しかし、逗子では、めろめろな歩行しながら、いろいろなイベントに、参加している。逗子で、生活するには、考えないといけないこと、多い。(2018-10-17) ---------------------------------------------------------- 遂に、今年も終わりに、限りになく近づいた。今年は、何をしたのだろう。 1月に、逗子の景観まちづくり、瓦版第58号。「アザリエとは?どんなところ?」 2月に、持ち前の、好奇心から、障がい者の申請した。なんと簡単に、体幹不具合の、障がい者二級の免許を、いただいた。 誰にでも、伝えることではないが、みなさん、少しずつ、分って来ているようだ。 離れて行く人も、あるような気がする。 今年は、3月と12月に、堺の家に行き、断捨離をスタート。 12月に、障がい者応募の、ずしチョコ 包装ラベルのイラストが採用された。 早速、チョコを、逗子自治会や堺の人にも、配ったので、障がい者としての衆知が、進んだようだ。(2018-12-5) ----------------------------------------------------- 今年の年末は、生まれてはじめて、除夜の鐘を聞かなかった。紅白をかろうじて、毎年のように、部分的に見た。おまけに、年越し蕎麦も食べないで、疲れて寝てしまった。年末の準備は、去年まで、自分がやっていたのを、今年から、放棄した結果、自分のペースの年末年始では、なくなった。これも、歳と体調のためだろう。 (2018-12-31) |
逗子景観 まちづくり 瓦版58号 生活絵日記 逗子の想い |
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2019年 80才 |
子供の頃から、憧れてきた、満80歳になる年。身体が弱い人生で、まさかここまで、たどり着くとは、思ってもみなかった。 多少、遅れ気味の年末年始だったけれど、ようやく追いかけて、普通の正月らしい生活が来て、それも過ぎようとしている。 今年を、良い年にしたいのは、誰でも思うことだけど、引いたおみくじが、大吉とあっては、励みになった。昨日、今年はじめての、勉強会のイベントに参加した。グループ話し合いの時、なんと、起立して、会場全員の前で、意見を述べてしまった。初めてかもしれない。 やりたいこと、やらねばならないこと。いっぱいあって、どれから手をつけてよいか。ひとつずつ、やって行こう。(2019-1-8) 一月も早々と過ぎようとしている。家のことは、今年中に何とかしたい。身体が言うこと利かないので、移動が困難。どちらかを、想い出だけを残して、家を捨てることになる。不動産関係を、調べている。自分だけで決められない。これからの話。 (2019-1-25) ------------------------------------------------------- 今年の2月は、寒くてたまらない。多分、歳の所為だろう。(笑い)(2019-2-15) 3月も、たちまち過ぎた。堺行きのキップを取ってあったけれど、体調不良のため、キャンセルした。今年は、寒暖の差が激しいように、歳のせいでか、激しく感じる。 スケッチは、続けているが、風景スケッチは、家の周辺と、バスで行ける近場。他には、勉強会での、人物。 歩行距離の長いところは、無理になった。 たちまち、4月になり、世間では、新元号でもちきりだけど、こちらは、何にも進んでいない。久しぶりに。堺に行くけど、何をするのか、定まっていない。(2019-4-2) ------------------------------------------------------------ 堺では、さくら、サクラ、いっぱい描けた。嬉しい。(2019-4-14) ------------------------------------------------------------------ 改元したからと云って、こちらの生活は、なんら変わることはないのだ。変わってほしいよ。(笑い)(2019-5-2) ------------------------------------------------------------------ 今年の季節感は、おかしい限り。長い梅雨空に、振り回されている。(2019-7-13) 知っ得ずし、というサロンに、入り込んで、たいへんな毎日が続いている。自分のスケッチが、手帳に採用されるというので、深入りしたようだ。 雑談サロンで、プレゼンすることに。それも、初め、7月21日の予定が、行き違いで、8月24日になった。あーでもない、こーでもない、と、思いめぐらしている毎日。成功することを、祈るばかりだ。(2019-8-5) 次には、台風と酷暑の日々。たまらんな、生きている心地が、しない。 堺行きも、当てがつかないので、放ったらかしだ。(2019-8-17) 雑談サロンのプレゼンが、無事終わって、ほっとしている。予想していたような、緊張もなく、結構、楽しく過ごせて、嬉しい。自信もついた。 人数も少なかったし、多分、手元でイラスト板を見せながら、手を動かしながらの発声が、良い結果に結びついたのではないか、と思う。 BGMも、無事に鳴らすことが出来た。視線を、正面の人ばかりに向けていたのは、反省。もっと他の方にも、向けたほうが、良かった。 準備した印刷物や、器材は、大部分、使わなかった。キャリーが重たいので、運搬がたいへん、バス乗降には、側の人が手伝ってくれた。数日間は、身体がたいそうだった。ゆっくりと休んでいる。(2019-8-28) 10月、毎年恒例で、堺に行っている。行きのバスの予約を取ったものの、キャンセルした。なんとか、堺の家を、片づけたいのに、先延ばしばかりだ。作品展は、最近やっていない。秋祭りで、賑やかな時では、肝心の片づけ作業ができない。それに、体調がおかしい。ふらふら度が、ひどい。数回、ころんだ。(2019-9-16) 今年は、ひどい台風が、2回もやって来た。10月12日は、夜通しの風雨で、強風が窓を、叩きつけた。幸い、窓が割れることは、なかった。 東日本一帯は、たいへんな災害だった。堺のお隣から、電話いただいた。 身体の方は、ますます弱ってゆくのを、実感する。外に出るのが、億劫だ。逗子は、イベント多すぎて、困ってしまう。(2019-10-16) 12月になって、堺に一週間滞在した。天気は、比較的良かったけれど、身体が不調というか、やる気が起こらなかった。自転車の手押しで、ライフに二回。近くの公園で、スケッチ1回だけ。唯一、二階で、亡妻の、貴重な遺品にふれただけ。初めて見る写真など。(2019-12-14) 先月に続いて、2台めのPCを、amazonに注文してしまった。UMPCと言って、手の平大。 高齢者センタや、クリスマス会など、イベントばかり、年賀状もあり、大変な日程だ。(2019-12-18) 年末の正月の用意は、大体、娘がやってくれるようになって、助かる。その分、こちらの体力の衰えを、非常に感じる。(2019-12-30) |
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満80歳になりました。これからの人生は、おまけの人生。今年で、この日記を、取りやめます。 振り返れば、我が人生は、何もなく、さっぱりとしものでした。これも良いかな。 (笑い) |
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