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興味のある言葉・探究したいテーマ 
(2007.11.15 Re; 2013-8-31 Re; 2015-4-20 Re; 
2017-7-31 Re;
2020-1-29 Re; 2021-8-2)
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真実、誠実、世間、風土、感性、自由、美、哲学
原始時代、土着、郷土、自然、宇宙、地球、人類、歴史。
ナショナリズム、グローバリズム、日本文化、近代科学文明。
大衆、生活文化、地域福祉社会。
風景美、美と趣味と芸術、 スケッチ、クラシックギター。 
デジタル、ITと芸術、デジタルサイエンス。



関心の少ない・好まない 言葉・テーマ

儲ける、利益、営業、ビジネス、宣伝、コマーシャル、企業、経営、
行政、政治、管理。


嫌 い な 言 葉
独裁


 2005年9月15日作成 私の一生かけて探求する、基本的な目標です。
放送大学卒業研究の研究課題として提出したレポート 【現段階での履修計画】
   
①遊び、 趣味と、 芸術の関係を考察して、 趣味活動も芸術とたりうることを論証します。   

 趣味とは、物事の味わいや美を感じたりする力であり、 また、仕事としてでなく、ただ、楽しみとしてする事柄です。しかし、趣味と芸術の根底にある概念として、 天才などよりも、上位にあります。芸術美は、なによりも、自然に感動する趣味判断により、生まれるものです。

 楽しみや遊びとして、 目的のない人間行為も、 初めは 誰かに対しての見世物でなくても、ひとたび、観客を得ることにより、作品となり、芸術美となります。


②スケッチというものが、 単に、タブローに対する下書きでなく、それだけで、美を内包した、芸術作品たりうることを、論証します。

 スケッチとは、 未完成作品でな<、美をやどした芸術作品です。 自然の中の真実を宿した時に、美は現れます。
 天才を付加しないでも、自然美は現れ、芸術作品となります。ヨーロッパでも、デッサンという形で、あるいは、水彩画などで、多くの芸術作品があります。日本の場合は、古来、余情の美として、未完成の美が、感性に適っています。

③自然というものを、 日本的感性から捉えて、 日本人にとって風景画というものの意味を説明します。

 豊かな風土に恵まれてきた日本では、 自然は、その中に抱擁される母性であります。 真実が宿るものです。 自然の中で、 自然の真実が見えるようにする行為を通して、日本人は、美を生み出し、癒されてきました。

 ヨーロッパにおけるように、人間との格闘を通して、風景にたどりついたのでありません。
日本的感性からの風景にこそ、 美的感動があります。日本では、まさしく<、 存在論的な美の表出があります。

④情報社会、高齢社会の趣味活動の中で、 作品の提示手段として、ITの活用を検討します。

 喫緊の要件である、情報と高齢化について、 哲学 美学からの適正なアプローチが、現状では、見えていません。

 全てが記号化されていく社会にあっで、 美的感性や芸術も変化して行きます。
 美と、デジタル技術の相関については、 現実問題であります。作品発表の社会場として、インターネットの有用性は、ますます増大します。

 高齢化社会における人生時間の、世界内存在として、生活者の美的感性から見た、真実を求める活動として、趣味活動を見る必要があります。

⑤画材としてのパステルの可能性と風景スケッチへの対応を説明します。

 日本における趣味の絵画活動の大方は、水彩スケッチで占められていまます。日本的感性から、また、歴史的流れから、 水彩による風景スケッチの素請らしさは、論を待ちません。
 
 ここでは、水彩にも劣らず、風景スケッチに有効である、パステル画の手法と歴史を叙述します。

 パステルは、 ルネッサンスの頃にヨ ーロッパで、デッサン画材として生まれました。
 余情の美を超えた、芸術美をも表現できる、力のある画材です。


(まとめ) 先行研究を探索してまとめる、研究ノート形式のレポートを目指します。


ここで書いていることは、その時に抱いた探究の方向性は、現在もいささかも変化していません。

① だれも科学的に証明できない個人的な見解である。
② あまりにも幅広い課題であるので、消化できそうもない、との理由で。


卒業研究のテーマは、却下されました。

指導官の意見により、パステル画家・ルドンに焦点を当てての研究に決めました。
私の履修計画申請は、ルドンとは、少しも関係ありません。
敢えて言えば、画材がパステルということ。

ルドンには、少しの不満もありませんが、しかし、
私の課題は、これからも残ったままとなるでしょう。
人生の時間が、残り少ないので、夢のまた夢となりそうです。

私の研究課題は、残りますが
実践では、自分の方法で、生きて行くしか、方法がありませんね。(笑い)


 
放送大学卒業研究の研究課題として採用されたレポート
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  第2回ゼミ用   卒業研究 報告書   木下俊延   2006-6-18
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【テーマの再検討】 パステルについての考察

 パステルによる風景スケッチというテーマで、文化論的な論文を目指していましたが、
 
 ① だれも科学的に証明できない個人的な見解である。
 ② あまりにも幅広い課題であるので、消化できそうもない。


 上記の理由により、限定されたテーマか、または、     
 固有の画家についての研究に絞ることになりました。

 (1案) パステル画家についての考察
 (2案) 風景画家についての考察

 画家ということであれば、自分の興味の対象となる画家は、パステル画家しか居ません。パステルであれば、今まで体験した一定の画材の知識を、 研究に反映できる可能性もあります。問題点は、パステル母国であるフランス語力が弱いので、原典の読解が困難であり、翻訳に頼らざるを得ません。ウンベルト・エコによれば、原典による研究が原則とするも、論題により翻訳でも可能とありますので、考察対象を、日本における先行研究のまとめと、画材技術的な方向に絞ります。


【準備資料】  ほかに、他大学にコピーを申請中の資料も多数あります。

 論文作法、調査研究執筆の技術と手順 ウンベルト・エコ (而立書房)
 ルドン 夢の生涯 幻想芸術の極致 池辺一郎 (読売新聞社)
 ルドン 生と死の幻想 粟津則雄 (美術出版社)
 オディロン・ルドン 神秘と象徴 粟津則雄 (美術出版社)
 オディロン・ルドン 光を孕む種子 本江邦夫 (みすず書房)
 私自身に  オディロン・ルドン (みすず書房)
 オディロン・ルドン パステル画 (芸術家の打ち明け話) オディロン・ルドン (美術出版社)
 沈黙、昼、夜 幻想に彩られた修道院の壁画 山本敦子 (講談社)
 夢と神話 ルドンの人と作品 粟津則雄 (新潮社)
 幻想美術の見かた 千足伸行 (東京美術)
 フランス絵画史 ルネッサンスから世紀末まで 高階秀? (講談社)
 A soi-meme (私自身に) Odilon Redon (Jose Corti)
 Critique d'art. Odilon Redon (William Blake)



(ルドンの花をめぐって)

 私は青年の頃、ルドンの花の絵を見て、あのような綺麗な花が描きたくてパステルで絵を始めました。長い中断の後、10年程前から、戸外での風景スケッチに、パステルを使って、見えるものを、見える通りに、描いてきました。
パステルには、他の絵の具にない多数の特性がありますが、ドローイング による線描と、ペインティングによる色面が、同時に可能です。このため、デッサンとタブローの作成が、これだけで出来ます。また、速写性、計便性により、戸外でのスケッチに最適の絵の具です。

【ルドンの言葉】
 
 ルドンが、写実主義について、語る言葉です。

 「芸術は、何よりもまず、できるかぎり素朴に物を見て、何一つでっち上げ ることなく、凝りすぎることなく、先入見なく、とにかく何一つ美化することなく再現して、自然そのものが作り出す効果を支配させ、その効果の責任を 負うものたらしめることである。」 (Critique d'art)

 これは、私が今まで、芸術とは、斯くあるべきだ、と考えてきたこと、そのものです。

 ルドンの言葉は、続きます。
 
    「これら写実主義的理論にふくまれるいっさいの狭隘なものに、眼をとざすわけには行かない。これらの理論は
芸術に制限を加え、そのもっとも豊かな源泉を拒んでいる。その源泉とは、思想と霊感であり、天才であり、 天才がわれわれに啓示するいっさいである。」 
 
    「現実を文字通り再現することにのみ、かかずらおうとするすべての人々の欠点は、良い仕上げや小道具をうまく描き上げることのために、人間や その思想を犠牲にしている点である。」
 
    「真の芸術家は、このような安っぽくまた極限された追求とは、はっきり対立している。すなわち、真の芸術家は、見られた現実が土台として必要で あることを認めてはいるが、真の芸術とは、感じられた現実のなかにあるのだ。」   
(以上、Critique d'art)

 ここに、ルドンの神秘のパステルの花の、芸術的な源泉があります。あの花は、見えている通りの花ではなくて、ルドンの心を象徴した花です。
ルドンは、生まれて直ぐ、里子に出され、少年期を、病弱で内省的な、自然児として、ペイルルバードで過ごしました。

 「私は、野原のひと気のないところで、地面に寝そべり、雲が動いてゆくのを眺めたり、束の間の変化が作る夢幻的なきらめきを限りないよろこびを覚えながら、目で追ったりして、何時間もというより丸一日、過ごしたものです。」

   (芸術家の打明け話)
 
   孤独な生活を通じて、特異な結びつきを作り上げていた、ペイルルバードの土地屋敷が、後年、売り払われた時のルドンの言葉です。

 「住み慣れた場所を離れることは、私にとっては、いつも一種の死でした。」

   (私自身に)

1904年の アンドレ・ジイドの日記に、ルドンの言葉として、謎めいた金言が書かれています。

《自然とともに、閉じこもること》 (s'enfermer avec la nature)

 私も、内向的な子供時代を過ごして来ましたので、ルドンのこれらの言葉に、大きな共感を覚えます。

 卒業研究履修を機会に、ルドンのパステルに立ち返り、資料を探索したり、パステル画を鑑賞して、改めて、ルドンのパステルの素晴らしさが分かりました。

 ルドンを、なお深く読み込んで行くうちに、私自身の絵画に対する考えや生き方にも、少なからず影響が出るかしれないと感じています。


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【論文の組立て】 ① 題名 ② 序論  

            ③ 本論  パステルの歴史 パステルの描法 ルドンの人生  
               ルドンの日本における研究 ルドンのパステル描法

            ④ 結論と考察  ⑤ 引用・文献  ⑥ 付録図版


放送大学 卒業研究 (ルドンの花) (2006-10-22)
 

表紙.pdf へのリンク
目次.pdf へのリンク
序論.pdf へのリンク
本論1.pdf へのリンク

本論2.pdf へのリンク
本論3ルドンの花.pdf へのリンク
まとめ.pdf へのリンク
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現 代 哲 学 へ の 挑 戦  (私の哲学への挑戦)
船木 亨 専修大学教授 (放送大学科目2011年)


全てに先立って書いた、私のテキスト (2011)

ポストモダンの現在、哲学などという、すでに有り得ないテクニックに向かう情動にかられる ことの意味は、単なる趣味でしかないのだろうか。人間性という観念が存在しなくなった世界で、人間の存在理由など、探究することの無意味さを感じる。

私は、すでに機械じかけとなり、生物の端くれとして、宇宙の中で生成され、宇宙の中で欲望 し、ついには宇宙の中で、無機物に変わる化学変化でしかない。宇宙という森の中で、たまたま道に迷い、入口も出口もない枝道で、立ち止まり、樹木(きぎ)の根で手に触れたもの、ぶよぶよとした卵のようなもの。物の中から、何かが生成されて、次の私という生物が現れるの だろうかと、期待する情動、それが哲学するということなのでしょうか。ここは、おとなしく 、全てを受身で感じることの範囲に、私の欲望を制御することが、私に出来る、宇宙にかなっ た、唯一のことであるだろう。

私の生活世界には、思考することでなく、感じることこそ、私に出来る生き様である。一つの 真もなく、一つの善もなく、一つの美もない。ただ、自然という宇宙の見え方を直視して、ミ メーシスする。感じてふれることを、欲望して、時間が進行する。やがて病人と分類され、宇宙のちりとなるだろう。私に、今少しの時間、老年の楽しみとして、スケッチの時間を、与 えてくれることを、神に祈ります。
神は、居ないけれど。笑い)

人類の世界は、ここに来て、古いモダンな言葉で云えば、標語にしかすぎないように見える、 「自然に帰えれ」が、思われます。人類は、野生に戻ることが、希望されます。

現代の機械まみれとなった人類は、「機械の中で」 野生の時のような、本来の平等と自由を、取り戻すことが、可能ではないかと、思われます。


放送大学 「現代哲学への挑戦」 通信課題への提出回答 (2011-11-16)


【問1】 今日の社会状況において、哲学することにはどのような困難があるか、意見をまとめよ。

ヘーゲルが、全世界のすべての説明図を作成してから、キェルケゴールとマルクスによる反発があり、現代哲学が生まれました。

マル
クスの流れは、ソヴィエトという人類の実験が失敗して、現在では哲学自体が消滅したように見えます。

キェルケゴールの流れは、サ
ルトル以降の実存主義に引き継がれ、世界よりも自己の生をこそ、かけがえないとしました。

その後、現象学や構造主義や、もろもろ
の哲学や反哲学や、やって来ては消えてゆきました。リオタールが「大きな物語」は終わったと宣言してからも、すでにひと昔が過ぎました。その意味では、ポストモダンもすでに終わり、次の時代に移ったと云えるかもしれません。

ギリシャ以来の西洋哲学は、今と
なっては、何だったのだろうかと、首を傾げたくなります。現代の状況を見ると、機械的な人間の世界はますます進み、ネットというリゾームに絡み取られた人間世界があります。従来の真実を探究する哲学という人間の営みも、情報を検索するという機械的な動作に変化しました。

全てが相対化している世界で、人間が人間として自覚して生きることの困難さを感じます。現代哲学者にも、相対的な言説しか感じられず、深くコミットする気持ちが起こることはありません。リオタールの「ポストモダン」が、時代に囚われることに対する単なる反省のスタイルであるとすれば、この言説が一番まっとうにも感じられます。

現代に救いを求めるとすれば、機械となった人間の世界は、どことなく原始の野蛮時代の人類と同じようなレベルの平等な世界となりつつあるように見えることです。人間が歴史的に積み上げてきたすべての制度が、これから無意味になる時代が、必ずや到来すると思われます。人類は、野生の時代に帰ることにより、機械の中の人間から、自然の中の人間に戻ることが出来るのではないだろうか。もし人間に哲学が必要であるならば、「自然に帰れ」という、ルソーの言葉が今に復活すべきです。

ヨーロッパ哲学と科学の流れは、ルソーの気が付き向かうべき、と考えた方向とは反対の方向へ来てしまったのです。野生に帰えれば、地球のある地点だけに偏在しない、日本も中国も、西洋から未開と云われたアフリカや、アメリカのネイティブも参加した、すべての地球で通用する哲学を構築できると思われます。

レヴィーストロースの「野生の思考」が一番好ましい。アルタミラの洞窟で、野生人は自然を写しただけです。美も、カントの判断力から離れて、自然に内在する美をミメーシスすることが芸術です。現代の科学技術によれば、ベンヤミンの「アウラ」も、デジタルコピーこそに宿るものです。物質の作品の方が仮像にしか過ぎません。真実も、ものによる保証など必要ありません。情報に宿る真実は、鮮度だけがすべてなのです。

哲学は、陽炎のごとく揺らめき、はたまた、生鮮食品のように賞味期限があり、もしかしたら再利用が可能なのかも知れないのです。

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《通信課題の回答に対する総合的な指導・助言》 (添削の解答がありました。2012-1-10)

”自分のことばで、オリジナルに思考された優れた答案と思います。普遍的登記簿の中で確認された真理と、哲学が求める真理の関係は、どのようになっているのでしょうか。さらに考えてください。” (船木)

現代哲学への挑戦(平成 23 年後期・通信課題の回答・私案)
普遍的登記簿のこと    2011-11-16.

【問2】 最も関心を抱いた哲学者または非哲学者を一人挙げ、思想史的文脈ではどのように限界があるとされているか、どのように捉えなおせばそれをのり越えることができると思うか、考えを述べよ。
(私は、問いの内容に関係なく、普遍的登記簿について、論述しました。)

超多忙に日々が過ぎてゆく現代生活では、充実感もなく、ただ軽薄な情報に浸かりながら、人生が過ぎてゆき、やがて終わるように感じられます。必死に物の本質に思いをいたし、日常生活の向こうに、世界の真実を探しているつもりであっても、その行為自体が、ポストモダン状況の今、それで本当のことなのかは保証されるものではありません。真実を探すということ自体が近代の亡霊なのかもしれません。ポストモダンは人間性そのものが過去とは一別しています。混沌とした状況、あらゆることが分散した状況でしょうか。

その中で、宇宙の中でのほんの芥子粒の一粒にしかすぎない人間が、なぜ自己の存在理由や、宇宙の成り立ちまでに思いをいたすのでしょうか。 現代では哲学するなんていう固有の行為自体が存在できない危機にあると思われます。哲学自体が、歴史の普遍的登記簿に収録されて、矮小化されて以来、世界のすべてを説明するものではなくなりました。
哲学の復権などを今さら求めても始まりません。西洋由来の古来の哲学は、現代では情報 科学の一部門でしかありません。(以上のことが本当に、言えるのだろうか。)

普遍的登記簿が、世界のすべてを説明するということが真実なのでしょうか。グローバル化ということに関しては、ヨーロッパの科学文明由来のアメリカ発信のネットの文化が地球を覆い、領域国家の垣根を無きものに変えつつあります。しかし、現代よりも前の歴史では、小さなヨーロッパ半島の外にも、古来の文化や思考の営みがありました。
日本という島国の独特な優しい文化、中華という地域の精神文化、西洋から未開といわれたアフリカやネイティブ・アメリカンなどの営みの中にも、西洋的な哲学思想に劣らず優れた思考が存在すると思われるのです。現今の、現代中国における政治的実験に秘める発展的な可能性を認めても良いのではないか。日本は、明治の文明開化により西欧化してしまいましたが、何か今後の地球文明に寄与できることがあるのではないかと思われてなりません。ネット文化は、ヨーロッパ生まれながら、すべての文化を発信して地球文明に寄与できる 可能性を秘めていると思われます。 地球の歴史の中で、日本列島において、2011 年 3 月 11 日という一瞬に、その普遍的登 記簿には書き込まれていなかった、
もしくは、書き込まれていることが人間に自覚されていなかったことが発生しました。普遍的登記簿と言われるリストにも、確認されていないことが、未だ存在している可能性があるのです。最近、地球上の各所で起こっていることが、それを証明していると思われる。過去の歴史にあったこと、いつか来た道とは、違うものです。

そのことを、人間に知らしめています。災害という面で見れば不幸でありましたが、現代の哲学する人間にとっての一つの証であります。「想定外」という言葉は、真実であり、人間には未だ不明のことが存在すると云うことが分かりました。歴史的登記簿の先にも、未だ未明の混沌、ポストモダンの状況があることになります。哲学自体が、ポストモダンの中にあると同時に、ポストモダン状況を含めた、普遍的登記簿そのものが、哲学で解明されなければならないのです。哲学と云う言葉に囚われず、真実を求めるという人間の「知への愛」の行為は、今後も続ける意味があると結論できると思われる。





本から電子書籍へ すべての美の本体をクラウドへ
(2011.9.15) 
 



子供の頃から、本に対する憧れは、人一倍ありました。気持に押されて、書籍関係の企業で40年も過ごしてしまいました。世界中の本に触れることが出来たのは良かったと思っています。

それ以来、勉強すること=読書=本の所蔵=積読というのが、ぼくの勉強のスタイルでした。これは今でも変わりません。趣味から実用まで、真の学問を目指した勉強も、すべて本から始まり、本で終わりです。そんな訳で、自分の趣味であるスケッチの結果を、今まで拘りのあった本という形式(Book形式)で残しておきたいとの思いで、今年に限り2件の美術雑誌に、作品を掲載しました。


しかし、最近の情勢は、紙媒体としての旧来の本ばかりなく、電子ブックや、Webも立派なメディアです。電子ブックの進展も視野に入れて、勉強中です。これからは、書籍という紙媒体でなく、電子媒体が残って行くでしょう。いずれ電子ブック媒体で、スケッチ記録の保存もしたいと思います。

Webについては、YouTubeという絵画と音楽の両方に適応したメディアの出現がありました。
音楽著作権の縛りが緩和できたことで、利用がしやすくなりました。著作権というのも、問題のある制度だと思います。

画像の再現性については、PCやモバイルのモニター、プリント写真、紙の印刷と、媒体により差異があることが分かりました。それぞれの特徴を生かして使用したら良い。本質的に云えることは、芸術とか美という、その本体は何かという疑問があります。絵画にしても、その本体は単なる物質にしか過ぎません。従来は、本体である物質そのものに、大いなるアウラを感じ求めて、人類の遺産として来ました。その考えが正しいのでしょうか。その物質以外に、美の本体をコピーして、保存する方法はないのでしょうか。アウラとは何でしょうか?物質から発するアウラと、コピーから発するアウラは、違うものでしょうか?

現代の科学技術により、アウラというものもコピーされるまで、複製技術は確立されていると、ぼくには思われます。


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最終的に、テキストや、画像や音声などの、自分の作成したすべてのファイルを、紙媒体よりも電子的なデジタルデータで残したい。

電子アーカイブとして、クラウドに保存しておくことで、災害に関係なく、本人の生死に関係なく、永久保存されると思われます。


今後はすべて、クラウド志向で行きます。
 (2011.9.15)
 


高齢者に優しい作品発表について(2013-8-30)


高齢者には、移動手段がないための作品搬入の困難や、展覧会制度としての作品の大型化などにより、作品の発表が厳しい美術界です。身近なところでも、高齢者が同じ悩みを抱えて、趣味の絵画から、次々に離脱しています。

絵画活動じたいは、最大の高齢期でも、サポートがあれば可能である。それに反して、趣味の画家の高齢化による離脱の時は、他の世界より早くやってくる。現在の美術界には、制度として、欠陥があると思う。

美術するのは、単純なる肉体労働なのではない。


考えなければならないのは、芸術は、一部の特権者だけのものでなく、生活大衆すべてのものです。高度な芸術美は、多大な手間をかける技術や、高価な道具だけから、生まれるものでもない。作品発表も、名を成したプロ作家だけのものでもない。反ポピュリズムの理念で、芸術を狭く捉えてしまうのは、ナンセンスであると思う。芸術に身分や、世俗的なもろもろは関係ないのである。

作品の発表の場は、外部の発表展、作品展などへの出品だけであろうか、ということ。

現代では、デジタル化による Web サイトという作品発表の場がある。作品発表・保存の手段として、プロ作家だけでなく、高齢者を含め弱者にも志向していると思われます。


絵画作品は、物質であるとは云え、平面絵画です。現在の絵画複製のプリント技術は、絵画の持つアウラや、素材の手触りも含めた表現が可能です。印刷体だけでなく、Webサイトでのデジタル表現技術の可能性も、十分あると思われます。

とは云え、

物質としての絵画作品と、Web サイトでのデジタル複製作品との相違を重要視することは、今後の芸術美の可能性に、制限を架けてしまうと思われます。物質は、常に変化し衰退します。芸術美の物質性に拘らないで、デジタル化することで、永遠なる美の保存は、可能であると思われます。


音楽の世界では、一般の楽器や声によるアナログ音楽と同様に、デジタル音楽も、普遍的な芸術美となりつつあります。同じことが、絵画美の世界でも、デジタル絵画が芸術美として、複製技術も含めて、認知される日が必ず来ると確信しています。


(2013-8-30)
 

   自己表現としての絵画のWebサイト利用

    【ムサビ通信、文章表現スクーリング 2013/6/8-9】 
    提出 学習レポート (1800文字)(評価80点)

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現代の大衆社会における、高齢者の趣味としての絵画制作の様相と、その後に来る作品発表の場について述べる。作品発表の場では、解決策としてのインターネットの活用について、主に考察したい。ますます高齢社会になって行く日本社会で、高齢者の生きがいの趣味活動のひとつとして絵画制作が盛んである。都会の絵画教室には、若い美学生だけでなく、多くの高齢者が集っている。また、各地の風景スケッチ会には、常時30~50人ほどの高齢者が集まる。高齢者の趣味活動と絵画美に対する私の考えを纏めてみた。

絵画美とは、何も西洋近代絵画の流れからの現代絵画技法にある合理性だけが、芸術に値するものだとは思われないのである。この地球上には、現在も種々の文化があり、絵画美はヨーロッパのみならず、日本にも、中国にも独自の形で存在していることは、周知の事実である。その他の地域民族にも、独自の美が存在するのである。インターネットにより、地球はひとつとなりつつ、生活の地球一体化が進んでいるのは、喜ばしい。しかし、絵画や芸術の美を、固定的にひとつに纏めることは、ナンセンスである。もしくは、美とはこの大いなる宇宙の中で、唯一のものであるとも云える。ピカソやマチスにも、現代の日本の片隅で絵画を楽しんでいる高齢者の絵画美の中にも、共通に存在するものである。

人類の祖先は、木枝の戦ぎから、枝を擦ることにより弦楽器という音楽美を引出し、岩石の土類を洞窟壁に擦りつけることにより絵画美を創造した。すべて芸術の初めは、人類の些細な手わざ、小さな技術から始まった。技術は、やがて道具を発明した。であるから、絵画制作にも、道具の役割が大きい。プロ画家のみならず、肉体的な衰えのある高齢者の野外の風景スケッチでは、特に道具立てをつとめて簡素に軽量に小さくすることが肝要である。芸術美は、道具の高価や大きさに比例しない。日本のお家芸、軽薄短少が極意である。

私的に制作された絵画作品は、それだけでは作品とは云えない。絵画は、鑑賞者が居て初めて絵画作品となるのであり、趣味の絵画と云えども外部に発表しなければならない。しかし、現代の制度化された作品発表の方法に問題があるのである。例えば、絵画の公募展の出品には、プロ画家などの推薦や多大の労力と経費を伴う。入選するためには、家庭で飾る壁面がない程の作品の大型化と、日常的な素朴な美よりも、西洋現代絵画にあるような奇抜な美を求め、特に高齢者の生活感覚にはそぐわないものである。端的に云って、絵ハガキ的な美は、排除される。グループの作品展などにおいても、最近の会場の大型化により、大型絵画が推奨されている。小型の作品の搬入にも、高齢者には無理がある上、大型作品は自動車便がなくてはならない。

絵画美の本質とはなんであろうか。ベンヤミンは、それをアウラと云った。しかし、アウラが根付いている基盤は、すべて物質なのである。アルタミラの洞窟壁画から、ギリシャの壺絵、中世のキリスト像、ルネッサンス以後の数々の西洋絵画は、すべて物質の上に刻印されて初めて絵画となった。絵画が、物質である限り、絵画美も永久に存在することはなく、いつかは他の物質に変化してしまうのである。このことは、歴史上有名な絵画にも、一介の高齢者の絵画にも、平等に起こるのである。永久に残す方法として、物質性を超えること、電磁波という粒子に変換された非物質にすることで解決される。現代の技術、デジタル技術を利用して、絵画美をデジタルデータアーカイブに変換して、クラウドに登録して残すことである。宇宙に未来永劫に存在し続け、いつの日か、地球が滅びた後、宇宙人が人類の残した美を堪能することであろう。

以上、学習レポートと云うには、情緒的すぎる文であると思われるが、一方で、こと芸術美に関しては、西洋の合理性も良し、日本人の情緒性、俳句性も良しと思われる。一介の高齢者の趣味活動である絵画制作の考えと実例を述べさせていただいた。私の野外スケッチに伴う道具立ては、リュックひとつで全てが纏まる。移動手段は、自転車である。制作作品は、直後に現場で撮影した画像を、インターネットサーバーに送信して、Webサイトが作品発表の場である。実例の絵画は、下記のWebサイトにて、膨大な数を発表している。 (2013/6/8-9)

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 西洋哲学の誕生 (キリスト教・律法)(2010-5-21)

「律法」とは、 福音が新約 聖書を云うのに対して、 律法は旧約 聖書であると一般的に考えら れている。 正確に云えば、 律法とは旧約聖書の三区分 (律法、予言者、諸書 )の ひとつであり、 モー ゼ五書(創世記 、出エジプ ト記、 レビ記、 民数記、 申命記) から成る。

モーゼ五書は、創世記から 始まって、 前半では天地創造、人類の誕生 、イスラエルの存亡などを伝 説的に語 る歴 史物語で ある。 後半では、神ヤハウェとユダヤの民との契約を、 律法者により語られた諸々の宗教 規範集で あり、 これが狭義の意味での律法である。

ユダヤ 教では、 律法が聖 書そのものであり、 ユダヤ ・キリスト教思想の一翼を担い、 西洋文化の一原点となるテキストである。

「イサク献供物語 」については、 東西の哲学者の解釈がある。

カントは、 このよ うな倫理に反 する神などの存在を否定し て、テキスト 自体を変えるべきだと した。

キェルケゴールは、 神によ る倫理判断の目的諭的な停止 要求であ り、 これに素直に 従った行為は信仰の極地であると した。

デリダは、 神も人も全ては 他者として 相対者であり、 交換の互酬性から、単なる神への返納に過ぎないとする。

西田幾多郎は 、ユダヤの神は絶 対矛盾の自 己同 一であり、 悪の底から人 を見守る存在 として、 ユダヤ教の徹底した理解を目指した。西田の思想は 、禅の影響を 受け、 哲学 よりも 宗教を上 位に、 直感に基づいている。 皇道にも同様の解 釈を与え、疑問が多少とも残 る。

西洋哲学の誕生 (キリスト教・贖いとは)(2010-7-17)

 

贖いとは、罪ある人間を神の力によって代償する、神と人間との契約であり、ヤハウェ信仰の初期から存在する。古代の神殿などでは、現実に生贄を供えることが、神と人間の執り成しであった。エジプト脱出の重労働からの開放も、モーセの執り成しの祈りによるヤハウェによる贖いとなる。神による代償の供えものは、初期の動物から人間そのものに変化した。

バビロン捕囚前後のイザヤでは、人間を差し出すことを願望だけでなく現実に起こりうるものとした。特に、第二イザヤによる捕囚後の苦難の神義論によって、「第四の僕の詩」に象徴される代理贖罪の極地が現れた。

ヤハウェ信仰の前史を経て、イエスキリストが誕生した。彼は律法を超える独自の信仰で布教活動を始めたが、律法主義による無理解とローマの権力により磔刑にされた。

新約の贖罪とは、イエスが人間の罪を背負って購って死んだという信仰に基づいている。贖罪は、イエスの生存時に本人に自覚されていたのでなく、死後にイエスの復活を信じた弟子たちにより捉え直された。イエスの目指した如何なるものにも制約されない愛=アガペーの愛が、弟子たちの裏切りをも超えたのであった。「姦淫の女の話」にあるように、すべての人間を罪に定めず、赦し合うことをアガペーの愛は説いた。

イエスは、弟子たちの心の中で復活したと云われている。弟子たちには「神の国」が近づいたと思われたのだった。以後、弟子たちによる信仰と布教により、キリスト教という宗教が生まれ広まって行った。キリスト教信仰においては、贖いの代償は、「人間から神の子・イエスキリストへ」と捉え直された。

近代になりキリスト教から覚醒した後、哲学者などによる贖罪思想に対する批判や共感が寄せられた。カントなどのキリスト教圏の哲学者や東西の宗教に親しんだ西田幾多郎などである。イエスという人間が存在したのは、歴史上の事実らしい。しかし、その後の、復活や再臨などが、現代の哲学の立場からみて真実であろうか。正しく信仰の世界であろうと思われる。現代の理知では一度死んだ人間の復活など在りえないことである。

現今の世界は、あらゆる格差が解決されていず、世界が不満足の状態である。とすれば、何らかのスピリチュアルに救いを求める心理があり、キリスト教などの宗教の役割が残されているのだろうか。また、中世から近代にかけて長期間、歴史上ヨーロッパ文明を育んできたキリスト教は、近代文明の前提となる抜き去り難い信仰であった。しかしながら、現代を生きる普通の生活者にとって、神とはキリスト教とは何であろうか。それらを乗り越えることが現代の人類に課された使命ではないだろうか。

贖いという概念も、現代的な理解を目指さねばならないと思われる。
  (2010.7.17)

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