2007年11月12日 ルソーの自然に帰れ
(とし坊 1939年 生まれ)
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ぼくが18世紀の人、ルソーに惹かれるのは、何よりも、基本的に感性の人、情動の人、内向の人であるからです。ぼくには、ルソーの気持ちが痛いほど分かるような気がします。 あの啓蒙の時代に、ディドロ、ヴォルテールなどの百科全書派の哲学者とは、性格的にまったく違う人でした。近代合理的な穏健な彼らと較べて、ルソーは、矛盾の多い人と云われているのは、人一倍の感性と理性を持ちながら、その狭間でゆれ動いて、両方を満足させようとした哲学を、模索していたのだと思う。今日から見て、その作業は完全に成功しているとは云えない。 むしろ彼の残した課題は、人類が未だ解決できていないものである。だから、ルソーを結果的に、フランス革命を用意した素晴らしい人と云う反面で、ヒットラーなどの全体主義の流れを作った人などと、まったく正反対の評価をするなど、可笑しいのである。彼は、理性的な市民社会の理論などでなく、内面的な人間の幸福を模索した人である。

自然に帰れ、という言葉は、間違ったルソーの表現であり、彼の言葉には存在しない。日本人が勝手に作ったようだ。しかし、思うにルソーは何故、日本で人気があるのだろうか分からない。ぼくのように、気持ちに何かフィットする点があるのか。

自然に帰れ、という言葉が間違っているにしても、ルソーが本心では憧れ求めた境地であるのは確かだろう。ルソーは、表向きは市民社会というものの原理を表現した。しかし、心の中では、現実にはない理想として、自然人の徘徊する、充足した自然を願っていたのだと思う。だから、本来なら普通の素朴な個人であった方が良かったのに、彼があまりにも有名になってしまった為に、人生の最終では、世間から総攻撃を受けて、孤独な散歩者となってしまった。彼の望むところであったかもしれないが、これは世間というものの見当違いな誤解である。この点では、18世紀のヨーロッパと、今の日本と変らないのであろうか。
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