とし坊のあしどり

(ギターとスケッチを中心に)

戦前と戦後、東京と大阪、
ギターとスケッチの人生です。


ヨーロッパ知と日本知の狭間で揺れ動く
人生とも云える。

社会生活よりも、個人として生きている人生、

お金には、まったく縁のない人生です。

私の人生は、退職後に、

自足されたと感じています。


WebSite では、私 個人の生活と思いが中心です。

ネットでは、家庭や親戚などの生活事情は、
ほとんど出しません。


現実の生活に関係した方には、
ご迷惑かけたくありません。


このページは、
自分の現実と気持ちを偽らず正直に、
記述しています。


現在の状況は、生活絵日記ページへ
(withCorona)
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私の音楽・美学の生活史へ

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人生の想い
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(2020-2-17)



木下家 系統図.pdf
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満80歳になりました。これからの人生は、おまけの人生。今年で、この日記を、取りやめます。振り返れば、我が人生は、何もなく、さっぱりとしものでした。これも良いかな。(笑い)   (2019年2月)
 2010- 6- 9作成
 2013- 8-31補足
 2013-11-16補足
 2014- 1-10補足
 2014- 7-25補足
 2016- 7-31補足
 
 2019- 7-20補足
 2020- 2-10補足
 2021-11-24補足


  BGM; 「愛と死を見つめて」
   
BGMが 聞こえない時は、 play ボタンをクリックしてください。
初めから聞こえる時は、ボタン をクリックしないでください。

 誕生から 高校生時代 まで
1939年 東京都豊島区椎名町で、6人兄弟姉妹の一人として、 誕 生

女姉妹の中で、生まれました。おまけに直ぐ上に生まれた兄が、直ぐに亡くなり、その代わりとして、生まれてきたように思われました。亡くなった兄は、見るからに健康そうで、可愛かった。それに対して、私は腺病質そうでした。生まれながらに、身体が弱かった。このことが、一生ついて来たようです。現在は、本来の身体に反して、なぜか長生きしているのです。

生家の隣に、2才年上の足の悪い、腕白坊主がいました。ずーっと彼に苛められていた記憶があり、そのことがトラウマのように、陰に日向に、一生ついて回っていたような気がする。 ぼくの人生には、いつも何かに苛められている、苛められっ子、弱者の感覚が、生き続けている。

ぼくは弱者の立場から、常に弱者と共に生き、
弱者を応援する人生でありたいと願っている。


東京都
豊島区
誕生
から
終戦まで

豊島区立東長崎第3小学校入学
戦前のことは、全体として懐かくも良い記憶として残っている。東長崎第三 国民学校 に入学しました。
その学校で、本当に入学式した記憶は、ありません。暫くして、近くの西武線の側の、お寺の寺子屋で、小学校の勉強した記憶があります。

やはり一番の記憶は、戦争のことです。東京空襲の時に、夜空に浮かぶB29と焼夷弾の光、今でも覚えています。家族で、近くの畑で、下につっぷしていました。上を、B29が編隊で、焼夷弾をぱらぱらと、落としてゆきました。その時は、綺麗な光に、見えました。

この頃、加藤隼戦闘隊の映画 を見ました。

終戦直前には、日本の飛行機が打ち落とされて、家近くに落ちてきて、二階の窓から見ていたこと。日本軍による、残骸の回収作業を、秘密の中に、全部見届けました。

戦後の想い出は、進駐米軍の拾輪車(じゅうりんしゃ)から、振り撒かれる、
チューインガムなどのお菓子を、拾い集めて、楽しみ食べましたね。

椎名町での記憶は、これぐらい。直ぐに終戦となりました。

終戦の数か月後に、練馬に引っ越しました。

この頃の想い出を、空想と事実をまぜて ムサビ通信の課題として制作した 寓意画へ  
都内で終戦前の出来事と、練馬での戦後の出来事が、複層している想い出です。
東京都練馬区
小学生~5年生

練馬区立
豊玉小学校
入学


終戦後は、その頃は田舎風であった練馬で、のんびりと過ごしました。

低学年の頃は、父親に連れられて、銀座や池袋に、散歩に行ったことがあり、唯一東京都内の想い出です。池袋の映画館で、ターザン映画を楽しみました。ジョニー・ワイズミュラーの「アー、アーアアー」の声は、今でも、忘れません。

父親の仕事の工場、敷地内の社宅で、小さな庭には、さつまいも畑があり、芋のつるを、食べたのを覚えている。工場は、石綿工場でした。このことが、後年、高齢期になり、問題点があったことが、分かりました。

低学年の頃は、家の近くで、ベーゴマとか、メンコに夢中でした。ベーゴマ研ぎを、近くの十三間(じゅうさんけん)道路で、竹竿の先に、ベーゴマつけて、研いでいました。

小学校では、戦後教育で育つ。担任の先生の影響で、昆虫採集が大好き。麦畑やどぶ川で遊びました。関東ローム層の上に、広大な麦畑と、小川が流れ、氷川神社や小学校がありました。漠然とした将来志望は学者でした。

 (豊玉小学校5年生。)

ヒツジ小屋前で。加藤先生と級友たち。お名前を、覚えている方、半数ほど。
この中の一人、凄い方。このころ宣言していました。
(ぼくは、東大に行って、日本一の鳥博士になります。)
宣言通りな人生を、送られています。

 大阪市
西区
小学6年生
大阪市立西船場
卒業

父親の仕事で、6年生の時、昆虫採集の箱に、アゲハ蝶を入れて、東海道線、特急つばめ号に乗りました。その時は、直ぐ明日にでも、東京に帰れる気持ちで、汽車に乗りましたが。

それが、関西暮らし、あれから何十年続いたのでしょう。
いつもいつも、老年になるまでも、東京に帰りたいという気持ちをもっていました。


小学校の最終学年に、引っ越したので、卒業は、大阪の小学校です。
大阪の学校に移って、一番の印象は、みんな誰も、ませた大人の顔をしていたこと。
やはり、商売の街だなと思いました。

大阪市
西区
中学生
大阪市立
花ノ井中学校
卒業
中学では、学期テストでは、パットしなかった成績でした。
普段は勉強しないのに、実力テストでは、いつも上位なのが、ひそかな自慢でした。

身体が弱く、体操は休み勝ち。プールはいっさい入らず。一生の かなずち (トンカチ) となりました。

隣の同級生の影響か、音楽が好きになる。ベートーベンの生涯をテーマにした 長編小説 ロマン・ロラン作 「ジャンクリストフ」 読破。

なんとなく、人生が楽しく、明るい思い出は、中学生までです。

大阪市西区
大阪府立
市岡高校 入学 

〈引越)


大阪市阿倍野区
市岡高校 卒業
家業が、思わしくなくなりました。暗い印象しか持っていません。何も残りませんでした。
大学進学校の高校の勉強には、少しも身が入らなかった。部活も何もしていない。
奨学金をいただいていましたが、一時、小学生ひとりの家庭教師のバイトもしていました。

後半には、なにやら進歩的?なグループの仲間に入りました。演劇の好きなグループでしたが、私には、演劇は、老年期になるまでも、門外漢です。人間関係のドラマが、好きでありません。文学にも関心持ちはじめた頃ですが、小説よりも、詩や短歌などの、韻文が好きです。

グループの方とは、長い間、友達だった方もいます。しかし後年、私が右よりと思われて、この進歩的なグループの方は、離れました。私は、右でも左でもありません。
(笑い) 


18才 幾つかの大学入試を申し込んだものの、結局、1回も受験会場に行けなかった。
5件の企業の就職試験に合格したが、高校で斡旋された企業に就職。
就職後も、2年間、大学進学予備校に通いました。
大学への夢を、断ち切れなかったのです。受験は、まぼろし、となりました。

以後、言われたままに入社した、書籍関係の企業に、意に反して、40年間、勤めました。

私にとって、60才定年までのことは、苦渋にまみれた、人生でした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


退職後に、私の人生は、復活しました。



在住地
&年代
スケッチ
& ギター
師のことなど HP
ページ
大阪市阿倍野区
18才~ 
(会社員スタート)

クラシックギターを始める 大阪の縄田政次先生に半年ほど、基礎を習う。マンドリンとギター両方で活躍の関西大御所の先生でした。 
 大阪市阿倍野区
25才前後
 パステル画を描いてみる  大阪パステル作家協会(松田登先生)に1年ほど通う。扇町のYWCAでデッサンに励む。
心斎橋のカワチのグループ展に1回出品。 
アジサイの絵があります。⇒
 
私の昔
古い画帳

(YouTube)
  
27才、結婚。  1男1女。 
この年のヒットメロディは、 BGM 
「愛と死を見つめて」 想い出のメロディです。
  
大阪府堺市へ
31才 転居
   
20年間の、大阪市内の生活に別れを告げて、
新天地へ引っ越し。
近代的な北ではなく、南の自然を選択しました
倖せさがして you tube 私の人生一番、幸せの時の想い出。
  
 昭和49年(1974)寅(とら)年 吾れ49才
歌を詠む
       
(人生 一番倖せだった時に)

   筋にうち形にうちて われ生きん この乱れ世に 貧しかりとも

   新春の光に満ちて オフィスの 窓辺に積み上げし 海外の書(ふみ)

   十年へて貧しき旅の 一里塚 妻子ら愛し 結婚記念日

   十年へて貧しき旅の 一里塚 子等も寄りそう 吾夫婦道

   不況風 吹き飛ばすかに 舞い昇る 竜(とら)の目光る 新春の朝

   妻をとも 子らをともとし 今日の日も 楽しく暮らせり 貧しけれども

   ご無沙汰の便りもせねで ごめんなさい われ妻子らをとも ささやかに生く

   海外の書(ふみ)仕入れして二十年 今 新店舗 われ伝統をまもる

   オレンジと白の ツートーンカラーに華やぎて 今 船場の一角 伝統よみがえり


 
(今おもうこと)
労働組合大阪支部、文芸誌(種子まく人)投稿、感想文。
昭和49年(1974)39才、記す。



tanemakuhito.pdf へのリンク

大阪府堺市

31才~50才
(昭和の終わりまで)

  
暫しの間の 仕事人間

暫く、ギターと絵画を忘れる、仕事人間でありました
しかし当時流行った猛烈社員というのとは全然違います。
また、労働者なんていう概念とも、違います。

ぼくは、仕事というものを、この世にもし神というものが
存在するとすれば、
神から与えられた 
聖 な る 賜 物 と捉えていました。
世間一般の労働感とはかけ離れていました。
報酬を要求するものでないと考えていました。
働くことによって、人類に何らかの貢献できるのだと、
自分に云い聞かせていました。どこの会社でも良いし、
個人で仕事できるのなら、それでも良かったのです。
そうやって、成り行きで入った会社で、何十年が
あっと云う間に過ぎてしまいました。


今から思えば、何だったのかなと思います。
利益を追求しなければならないという、会社人間には
向いていなかったです。立身出世を求めるでなく、
生真面目に、もくもくと働いただけです。
生活の糧を得るためだけではないと、自分に言い聞かせつつ、
一般のサラリーマン生活には、溶け込めない存在だった
と思う。

このころ、雇用形態の考え方に、日本的な生涯雇用の、(メンバーシップ型)から、個人の能力だけに焦点を当てた欧米の雇用形態 (ジョブ型)への変化があり、影響されたのか。
我が企業には、そんなに新しい経営陣は、いないと思われるが。(笑い)



指導職、専門職の制度が、導入されてから、社内の空気は一変したと思われました。


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(初期の頃)洋書仕入係で、データ作成を、部下の仲間と取り組んだ、指導職の時。

(40才過ぎて)営業や店頭で、部下のいない、停年までの、長い専門職の時。

(専門職として、何回も配転)

  大阪市内・短大担当外回り営業→(初めての大阪港付近)
  寝屋川・私学学内売店主任出向→(売店部下のおばさん達と仲良し)

単身赴任時代(1991~95)
横浜市西区北軽井沢(住まい)
  東京平和島・外国雑誌デリバリ→(倉庫センターでの仲間意識で)
  東京本社・外国雑誌センター仕入課→(東京の先輩たちみな優しかった)
  
大阪支店に帰任
  大阪心斎橋店・洋書売り場催事場担当(1999年3月停年)
  →1999年4月のぶらり散歩 京阪神スケッチ展に繋がります)


部下のいない専門職としても、新しい仕事は、私なりに、楽しかった、記憶があります。いろいろの場所を経験でき、自分の人生を膨らませました。(笑い)

     ぼくにとって、企業という社会について、思うこと

職業生活は、ぼくの子供の頃に抱いていた夢を満足するものでなかった。中学3年の時、[中学生の友] という雑誌に、その会社の社長の立身出世の記事があり、影響を受けたこともあり、その会社に決めたのでしょう。共に、働いていた同期の友や部下など、仲良くしていたり、楽しいことがたくさんありました。今でも、お付き合いしている方々が、たくさん居ます。しかし、[中学生の友]から得たものと、長い間の現実に働いた企業の姿は、まったく違うものです。後から見れば、企業の姿は外見と内部が違う、貧弱な組織に思えました。現在も名前だけは、残っていますが実情は、知りません。

子供の頃から、本に対する憧れは、人一倍ありました。気持に押されて、書籍関係の企業で40年も過ごしてしまいました。世界中の本に触れることが出来たのは良かったと思っています。入社から、暫くは、内務業務の作業に携わりました。一番の思い出は、仕入部門で、入荷する洋書籍のデータ取りなどの処理業務でした。これが、ぼくの学問への憧れ心を、くすぐってくれました。ぼくは、継続書籍というジャンルでした。当時は、ヨーロッパ哲学はなやかな時、Husserlliana というフッサールのシリーズの哲学書が、つぎつぎに発表され入荷したこと、内容は分からずとも、わくわくしたことを、今でも鮮明に記憶しています。後年、哲学の勉強して、現象学を知った時に、あの時の、Husserllianaを、思い出しました。入社してから、5年ほどの、この頃が一番に、想い出深いです。

内部業務の時代が、比較的長かったので、社内の伝票業務合理化もどきもしました。オフコンで、BASICアプリをいじったりしました。その頃、Windows の歴史が始まりました。NEC-PC9800 とか、IEとか、それから、ぼくは Windows一辺倒です。家では、ポケコンを楽しみました。
後年、企業内で後半の経験は、販売や店頭などの営業職にも付きましたが、良い思い出よりも、嫌なことがたくさん起こり、蛇足にしか過ぎないと、今では感じています。

そもそも本来、大学に行くつもりだったのが、高卒で社会人になってしまい、その後、大人になれない子供の心でずーっと過ごして来ました。
これらのことから、一般的に、職業的な社会生活などは、ぼくには相応しくなかったと、思えるようになりました。結果的に、ぼくは、ひとりで何かを創ることを、生業にすれば良かった、と今さらに思います。

年取ってから、放送大学やムサビ通信で勉強したり、自分のやりたい趣味に没頭している。現在は、過去の嫌だった職業生活のマイナス部分への気持を、一生かけて回復する作業をしている。時間は、あまりありません。(2011-3-31)
(補筆 2016-3-11) (Re;2021-12-10)


これより、
横浜市での単身赴任の生活が始まりました。
単身赴任からの方が、充実した人生となりました。
20年ほどブランクの後、青年期に覚えた絵とギターを再開しました

神奈川県横浜市
西区北軽井沢


単身赴任時代
(1991~95) 
 
水彩画(1年間) ヨコハマ美術友の会  (住田茂先生)で水彩画 勉強。
(住田茂先生は本来はパステルが専門)
古い
関東スケッチ集


古い
関東の葉書絵
 
 
クラシックギター(1年間) 東京目黒の加藤ギター教室(加藤誠先生)で、新しいギター音楽の世界を教えていただいた。GGサロンで発表会。 
パステル画(1年間) ヨコハマ産経教室(松本孝司先生)パステル画を楽しむ。 
ウオーキング活動
(5年間)

西区郷土史研究会 (住まい近くの歴史)

よこはま歩け歩け協会

鎌倉歩け歩け協会 

 初春を歩け歩いて山間に 
    富士の輝く鎌倉の里 

   これより、堺市での生活に戻りました。
大阪府堺市
1996年~
パステル画(1~2年間) 大阪パステル作家協会(松田登先生)復帰。  昔の
関西スケッチ
1997年 風景スケッチ(1~2年間) 毎日文化サロン(西上ハルオ先生)のスケッチ会入会。
(西上先生は、ペン画とアニメが専門) 
1998年  風景スケッチ(1~2年間) 日曜画家協会でスケッチ会を楽しむ。
ホームページ start
(妻の気功術の紹介ページが最初) 
懐かしの
関西スケッチ

1999年春 60才、定年退職
ぶらり散歩 京阪神スケッチ展
1999年後半

60才
 
室内の油絵(数ヶ月) サクラアートサロン(大塚伸一先生)油絵を初めて習う。
ひと月ほどで、止めざるを得ない事態となりました。
(退職後、直ぐに、個展開催 
生涯ただ1回の個展)
 2000年 妻 57才、
がんで急死
気功の指導者でした。
 
私の半分が、この世からなくなりました。



病室から、二人で、仁徳御陵を見ながら、お話しました。

病室で過ごした2か月の日々。
「愛と死を見つめて」 その儘に。

2000年

61才
ギター合奏 渕本一弘先生でギターの基礎。
附属の「北野田ペアレンツ」ギターアンサンブルで楽しく半年過ごしました。
老人ホームなど訪問。自分と同世代の方々が、涙を流して喜んでくれるのに、感動した毎日でした。
懐かしの
関西スケッチ


小さな旅~

昔の山のスケッチ

堺市と逗子市の往復生活が始まりました。
  天城を越えて、憧れの地、逗子へ。(天城越え)
 

堺市

逗子市


2001年
~2002年

62才
~63才
逗子は、毎月10日ほどスケッチ中心の生活。逗子&葉山は、散歩と自転車。鎌倉、横須賀、三浦半島、横浜、東京へは、電車利用。描くところが、いっぱいです。生きてる間に描きつくせないでしょうね。

堺では、家から自転車と散歩で行ける南大阪と、南海高野線沿いを、電車で、スケッチ&散歩。

夏の酷暑や冬の厳寒、雨の日などでスケッチ不可能の時は、勉強とギターの録音。
昔のスケッチ
2003年

2004年

64才

65才
2003年10月に放送大学に入学。

人生最後の勉強。知を愛すること。人生の本当を知りたい。スクーリング授業で行った先で時間を取り、素敵な風景をスケッチ。

逗子美術協会 2003年入会。風景スケッチ会のために入会したが、直ぐに廃部。現在は、何らの活動に参加していません。 逗子文化祭展に1回だけ出品。 

逗子スケッチ会(和田久松 先生)2003年~2004年で水彩画を勉強。クリスチャンの先生の優しい指導が良かったです。退 会

横須賀の
三浦半島スケッチ会佐藤 陽 先生)2003年に入会。温厚で、わけ隔てない、ご指導が素晴らしい。

先生には、革新派と日本的感性との両方が感じられます。ヨコスカでトップの水彩画家です。

これより三浦半島の風景のとりこになり、一人でも海岸の岩場などを歩き、スケッチしている。


三浦半島のスケッチ集、 (放送大学レポートの為に2007年夏に纏めたもの。) 

三浦スケッチ集pdf BGM;スカボロフェアに乗せて、

YouTube  「三浦半島の風景」

三浦半島とは  横浜市金沢区から南~鎌倉市滑川から東の範囲の半島部で、横浜市金沢区、横須賀市、三浦市、葉山町、逗子市、鎌倉市東部です。 
昔のスケッチ



放送大学学び舎




放送大学スケッチ
2005年

2007年

66才

68才
2007年9月に 放送大学を卒業。待望の学位をいただきました。

卒業研究は、パステル画家オディロン・ルドン研究。4年間は長かったですが、人生に立ち向かうのに、教養という武器を手に入れました。(2007.10.31)
湘南スケッチ

南大阪スケッチ


PowerPointへ
2008年

69才
ギター演奏CD曲集、7集(全170曲)完成(過去の演奏集)(2008.3.28)
ギター演奏CD曲集、新曲シリーズ no.1(19曲)完成 (2008.5.25)
ギター演奏録音ファイル(Mp3) 4~12月で、合計144曲となった。(2008.11.24)

「現代パステル協会展」パステル画の唯一の公募展に入選の知らせ。以後、3回出品。(2008.12. 8)
2009年

70才

2月に、古稀を迎えました。生まれつき虚弱体質だった人間が、なぜここまで生きてしまったのか不思議です。せっかくですので、運命に甘えて、もっともっと生きてみようと思います。
2010年

71才

平成22年2月22日で、アルバイト仕事を退職しました。これで、束縛されることから解放されました。憧れていた完全自由人間です。


これから逗子での生活が主体になります。堺は、勉強部屋、ギター録音、思い出のトランクルームとします。
横須賀文化祭に出した作品に、佳作入賞の知らせがあり、驚き、且つ嬉しく思いました。この歳になって、生まれて初めての賞状とご褒美を頂きました。(2010.11.23)
湘南スケッチ


南大阪スケッチ
2011年
忘れられない年

72才

3月11日東北関東大震災発生。


たまたま堺に居る日に、東北関東大震災発生。東京都知事の出馬会見を見ていて、その流れで震災報道に続いた。都知事の含蓄のある
決意表明で、このままでは、日本に近く非常なことが起こる。その声が終わるか終らないかに、ぐらーと揺れた。堺でも揺れた。恐ろしいほどのタイミングだった。


これから、せめて気持だけでも、世界の片隅で、世間にまみれない
一人の自然人を目指したいと、この歳になって思います。

東北の方々のような自然人です。地球上には、いろいろな人々が生活して来ました。概して、ヨーロッパやアジアの大陸の人々は、肉食系で戦いにつよく、自然を我が物にして近代文明を築いてきました。日本のように環太平洋の人々は、優しい心を持ち、自然と共生する人々です。丁度、縄文人のように。

ぼくは、東北の人々に縄文人の姿が見えてしまう。これからは、この優しい人々の心を、すべての地球人に伝え育てていかないといけない。地球上のすべての人々が、小さな民族や主義主張の枠を超えた発想を持って欲しい。このままでは地球そのものが滅んでしまうでしょう。 
(2011-3-31) 


今年は、運命的な年に感じた。干支の兎歳の6回目の巡り年であった。何か記念になることを、と思い、美術雑誌2誌に、スケッチを掲載してもらった。
facebook 始めました(2011.12.31)

自然は美しいが、
時に間違いを起こす



いつも変わらぬ春



とし坊のスケッチ手帳
2012年

73才

2012年4月に

武蔵野美術大学造形学部通信課程
に入学

おそらく生涯最後のお勉強になると思われます。生きてきて、何も残らない人生よりも、なにか納得するものを求めます。(2012-3-20)

日本を巡り、世界が非常に厳しくなってきた。人間とは? 痛切に考えさせらるこの頃である。日本とは、人間とは、何なのだろうか。(2012-12-27)

いよいよ高齢者に本格的に参加してきた思いです。体型も、腰曲りスタイルになって、坂道登るのがつらくなりました。来年は、気持ちだけでも頑張って生きて行こう。
(2012-12-30)
2013年
逗子市に住所変更

74才

腰痛が発生。今年から、杖デビューです。ますます老人らしい姿になりました。
(2013-1-23)

ムサビ三年次の後半(10月)から、休学を選びました。(2013-7-15)

残り少ない、かけがえのない人生 Only One My Life
持続可能な、普通の生活 Sustainable MyLivelihood


激動の中に、ムサビ通信最後の、夏スクーリングが、無事終了しました。(2013-8-15)

堺の家の整理を始めた。あらゆるものが、10年前のままの状態で、保存(?)されている。何とか、端から整理(=捨てる)を始めた。(2013-11-7)


5月2日付で、住所地を逗子市に変更した。(2013-5-2)

暫く、関西と関東の往復生活して、土地に固着することよりも、固定の生活者と、バガボンド(放浪者)的な、ふたつながらの視点から、世の中を見つめてきました。しかし、体力的にも、移動生活の大変さが、身に染みて感じてきた、今日この頃です。(2016-3-11)
最近のスケッチ


ムサビ通信





今日のスケッチ


(日々のスケッチ)
今日の1
2014年

75才

横須賀中央病院で、尿管結石の破砕手術。(2014-1-24)
2月に、後期高齢者となりました。現実の肉体は、じわじわと変化しています。

2014年3月に 武蔵野美術大学造形学部通信課程 を退学しました。
ひと時のチャレンジでしたが、たいへん勉強になりました。

健康と死をテーマに、勉強している。生活は、杖で行動可能な範囲限定です。スケッチは、クレヨンで、ますます小型になって行く。(笑い)(2014-7-20)

年末になり、一大事発生。歯の治療に突入。今年も、ついに身体の各種不具合の修理が、先送りになってしまいました。(笑い)
ムサビ通信退学





今日のスケッチ


生活絵日記


ホームページ
2015年

76才

放送大学を、完全に卒業した。(2015-1-24)

堺の家の、家族や自分の古い本の一部を、ネット古本業者に、送った。(2015-3-2)

体調不良発生した。体調不良の原因は、昨年と同じ、結石、5日に破砕手術となる。
(2015-6-3)検査の結果、再手術。
再手術は、ようやく1週間後に、無事大成功。破砕の技術は、医師によって、
巧拙があるように思える。(2015-7-24)

8月前半10日間、堺へ。家前の立木など、ひどいことになっていた。立木の伐採整理を、業者にやっもらった。(2015-8-12)

ビデオの廃棄処理を、始められた。逗子でも、ギターを復活して、ぼちぼちと弾いている。演歌だけだ。指が、ぜんぜん動かない。

ミニ花壇も、手がけた。体調は、相変わらずだ。年賀状に取り組んでいる。
カジュアル版の方には、サイトと、facebookと twitterの QRコードを入れてみた
何とか、実人生とネットと、真実の連携できないかな。ぼくの一生の研究課題だ。(2015-11-25)
ホームページ

生活絵日記
2016年

77才

喜寿とか云う誕生日、小さなショートケーキだけで、何事もなく、過ぎた。自分の人生は、なにも達成されていないし、これからも、このままで行くしかないよな。(2016-2月)(笑い)


2月に、堺への移動、バス乗り遅れ事故。3月に、自動車にひき逃げされもどき、の事故。入れ歯の紛失。それに、昔からの病変の痕跡の再確認を検診中。アクシデントと、病院廻りで、忙しい。あきれ返る。

脚力の減退により、ますます歩行が苦しくなってきた。スケッチ行きよりも、家でのギター練習時間が、多くなってきた。指も、動きにくい。ネットで、楽しんでいる時間が多い。

これらの事象に負けないための手段として、逗子のいろいろな学びのイベントに、つとめて参加するようにしている。認知症に向う速度の減速にも役立つだろう。 結構、忙しい。(^o^) (2016-3-11)


半年間、何をしていたのだろう。逗子のイベントには、たくさん参加した。8月、10月、12月と、堺の家に行った。身体は、いよいよ厳しくて、だんだんと移動するのが、億劫になる。堺の家では、片づけに専念している。本類を、捨てて良いのから、順番に、古本業者に送っている。重要な書類とか、想い出のものは、逗子に移動している。

今年も、あっという間に、過ぎてしまった。身体は、内臓は気をつけているが、メタボシンドロームは、ますます進行。足の筋肉の減退をおおきく感じる。曲がった腰を、支える力が、弱くなった。来年は、足の筋肉を強くする運動をしよう。(2016-12-31)
ホームページ

生活絵日記


「YouTube」
逗子ひとびとふれあい
2016年






2017年

78才









堺では、思い切った断捨離の実行。業者に来ていただき、30年程たまった手つかずの物。子供の物の以外を、思い切って捨てた。しかし、まだ半分も出来ていない。
介護保険を、要支援1で申請したところ、要支援2で、認可された。1と2の違いが、
良く分からないけれど、自分の思っているより、重度というのかな。(2017-6-24)


長い間、お世話になり、楽しんで来た、三浦半島スケッチ会を、退会させてもらった

今は、逗子の、家の近辺を、自転車か、バスで、行ける範囲で、スケッチを楽しんでいます。勉強会など、室内の人物スケッチが、多くなりました。
今年の春夏は、不順な天気で、身体には厳しかった。相変わらず、病院と薬は、
欠かせない生活。ようやく、秋めいて来たが、短い秋で、すぐに冬になるようです。

家で、ギターを弾く時間が、多くなりました。ほとんど、昭和歌謡です。夜寝る前には、you tubeで、大好きなピアソラを、聴いています。先日の演奏会で買った、バンドネオンと生ギターのCDを聞きながら。唯一のクラシック練習曲、オブリビオンを、弾けるようになりたい。(2017-9-26)

今年も、表面的には、明るい生活を、送って来た。しかし、肝心のこと、さし置いて、一年が過ぎてしまった。また、年末になり、身体が極端に悪化してしまった。来年は、こうしようという、気持ちが湧いてこないのは、どうしたものか。(2017-12-31)

 「YouTube」
逗子ひとびとふれあい
2016年


生活絵日記


生活絵日記

「YouTube」
逗子散歩
近く遠く
2017年








2018年

79才









年末に、お話しがあった、逗子の広報のひとつ、瓦版の新年初号に、自分の文と絵を、載せていただいた。嬉しい話であった。去年の暮れに、原稿を決定しておいたのが、良かった。去年の暮れから、体調がひどくなってきた。(2018-1-15)

3月25日から、たった5日間の堺滞在。短期間なので、片づけは何も出来なかった。ひとつ、家内の図面を、作成したのが、収穫。かなり詳しく、家具の配置や、物の置き場を、正確に記録できた。写真も撮った。少しだけど、萩天などのさくらのスケッチも、出来た。(2018-3-30)


最近は、身体が自分のものでないようで、外は、完全に二本杖がないと、歩けない。介護保険ランクは、要支援2のまま


久しぶりに、堺に行ったが、酷暑のため、当日まで行くかどうか悩んだ。案の定、家の中では、熱中症になることだけを回避すること。外のスケッチは、勿論、何も出来なかった。ただひとつ、10月の、萩原神社の作品展の、用意をした。出品は、今年が最後になるかもしれない。(2018-9-1)

毎年楽しみにしている、萩原神社の秋祭り作品展に、今年は、出せなかった。直前になり、体調がひどくなり、堺行きを取りやめた。しかし、逗子では、めろめろな歩行しながら、いろいろなイベントに、参加している。逗子で、生活するには、考えないといけないこと、多い。(2018-10-17)

1月に、逗子の景観まちづくり、瓦版第58号。「アザリエとは?どんなところ?」

2月に、持ち前の、好奇心から、障がい者の申請した。なんと簡単に、体幹不具合の、障がい者二級の免許を、いただいた。
誰にでも、伝えることではないが、みなさん、少しずつ、分って来ているようだ。離れて行く人も、あるような気がする。

今年は、3月と12月に、堺の家に行き、断捨離をスタート。

12月に、障がい者応募の、ずしチョコ 包装ラベルのイラストが採用された。
早速、チョコを、逗子自治会や堺の人にも、配ったので、障がい者としての衆知が、進んだようだ。(2018-12-5)

今年の年末は、生まれてはじめて、除夜の鐘を聞かなかった。紅白をかろうじて、毎年のように、部分的に見た。おまけに、年越し蕎麦も食べないで、疲れて寝てしまった。
年末の準備は、去年まで、自分がやっていたのを、今年から、放棄した結果、自分のペースの年末年始では、なくなった。これも、歳と体調のためだろう。(2018-12-31)
逗子景観
まちづくり
瓦版58号
















生活絵日記



逗子の想い







2019年

80才



 

子供の頃から、憧れてきた、満80歳になる年。身体が弱い人生で、まさかここまで、たどり着くとは、思ってもみなかった。

多少、遅れ気味の年末年始だったけれど、ようやく追いかけて、普通の正月らしい生活が来て、それも過ぎようとしている。

今年を、良い年にしたいのは、誰でも思うことだけど、引いたおみくじが、大吉とあっては、励みになった。昨日、今年はじめての、勉強会のイベントに参加した。グループ話し合いの時、なんと、起立して、会場全員の前で、意見を述べてしまった。初めてかもしれない。
やりたいこと、やらねばならないこと。いっぱいあって、どれから手をつけてよいか。ひとつずつ、やって行こう。(2019-1-8)

一月も早々と過ぎようとしている。家のことは、今年中に何とかしたい。身体が言うこと利かないので、移動が困難。どちらかを、想い出だけを残して、家を捨てることになる。不動産関係を、調べている。自分だけで決められない。これからの話。
(2019-1-25)


今年の2月は、寒くてたまらない。多分、歳の所為だろう。(笑い)(2019-2-15)

3月も、たちまち過ぎた。堺行きのキップを取ってあったけれど、体調不良のため、キャンセルした。今年は、寒暖の差が激しいように、歳のせいでか、激しく感じる。

スケッチは、続けているが、風景スケッチは、家の周辺と、バスで行ける近場。他には、勉強会での、人物。歩行距離の長いところは、無理になった。


たちまち、4月になり、世間では、新元号でもちきりだけど、こちらは、何にも進んでいない。久しぶりに。堺に行くけど、何をするのか、定まっていない。(2019-4-2)
堺では、さくら、サクラ、いっぱい描けた。嬉しい。
(2019-4-14)

改元したからと云って、こちらの生活は、なんら変わることはないのだ。変わってほしいよ。(笑い)(2019-5

知っ得ずし、というサロンに、入り込んで、たいへんな毎日が続いている。自分のスケッチが手帳に採用されるというので、深入りしたようだ。
雑談サロンで、プレゼンすることに。それも、初め、7月21日の予定が、行き違いで、8月24日になった。あーでもない、こーでもない、と、思いめぐらしている毎日。成功することを、祈るばかりだ。(2019-8-5)


次には、台風と酷暑の日々。たまらんな、生きている心地が、しない。
堺行きも、当てがつかないので、放ったらかしだ。(2019-8-17)


雑談サロンのプレゼンが、無事終わって、ほっとしている。予想していたような、緊張もなく、結構、楽しく過ごせて、嬉しい。自信もついた。
人数も少なかったし、多分、手元でイラスト板を見せながら、手を動かしながらの発声が、良い結果に結びついたのではないか、と思う。

BGMも、無事に鳴らすことが出来た。視線を、正面の人ばかりに向けていたのは、反省。もっと他の方にも、向けたほうが、良かった。
準備した印刷物や、器材は、大部分、使わなかった。キャリーが重たいので、運搬がたいへん、バス乗降には、側の人が手伝ってくれた。数日間は、身体がたいそうだった。ゆっくりと休んでいる。(2019-8-28)


10月、毎年恒例で、堺に行っている。行きのバスの予約を取ったものの、キャンセルした。なんとか、堺の家を、片づけたいのに、先延ばしばかりだ。体調がおかしい。ふらふら度が、ひどい。数回、ころんだ。(2019-9-16)

今年は、ひどい台風が、2回もやって来た。10月12日は、夜通しの風雨で、強風が窓を、叩きつけた。幸い、窓が割れることは、なかった。
東日本一帯は、たいへんな災害だった。堺のお隣から、電話いただいた。
身体の方は、ますます弱ってゆくのを、実感する。外に出るのが、億劫だ。逗子は、イベント多すぎて、困ってしまう。(2019-10-16)


12月になって、堺に一週間滞在した。天気は、比較的良かったけれど、身体が不調というか、やる気が起こらなかった。自転車の手押しで、ライフに二回。近くの公園で、スケッチ1回だけ。唯一、二階で、亡妻の、貴重な遺品にふれただけ。初めて見る写真など。(2019-12-14)

先月に続いて、2台めのPCを、amazonに注文してしまった。UMPCと言って、手の平大。
高齢者センタや、クリスマス会など、イベントばかり、年賀状もあり、大変な日程だ。(2019-12-18)


年末の正月の用意は、大体、娘がやってくれる
ようになって、助かる。その分、こちらの体力の衰えを、非常に感じる。(2019-12-30)


生活絵日記













生活絵日記
 
   

満80歳になりました。これからの人生は、おまけの人生。
2001年から、逗子・堺の往復生活を続けてきました。
たらたらと、続けていた、この日記も、今年で取りやめます。

振り返れば、我が人生は、何もなく、さっぱりとしものでした。これも良いかな。
(笑い) 
 
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私の音楽・美学の生活史      (2017-8-22 re;)
             (2019-9-20 re;)
(2021-11-30 Re;)

    (人生100年を、4分割します)    

(第1クオーター)  1~25才 楽しく生きた記憶。思いっきり、生きた。

1939生 小学校入学以前 戦前に見た映画で「神風特攻隊」という スクリーンで流れたメロディが、耳の底に焼き付いている。

1945入学 小学校 終戦後には、ラジオドラマで「鐘のなる丘」という主題歌のキンコンカンで始まるメロディが耳に残っている。


1951入学  中学校 ロマンロランの小説「ジャンクリストフ」で、音楽の素晴らしさに開眼した。中学時代は、ベートーベン、チャイコフスキー、ショパンなど、クラシック曲を夢中になって、聴いていた。

1954入学 高等学校 進学校で、勉強ばかりで、何をしたのか覚えていない。選択科目→音楽、コーリューブンゲン?

1957 19才 大学に行かず、社会人となる。ギターを知る。クラシックギターを初めて手にした。生まれて初めて自分で買ったLPは、ギターの神様、アンドレスセゴビア。


20~25才 (1960-1965) クラシックギターで、「禁じられた遊び」古賀政男の演歌に夢中になる。ギターは、小さなオーケストラ。これより、ギター、ピアノ以外の曲、オーケストラなどを、聴かなくなった。絵画を始めた。 
 

(第2クオーター) 25~50才  会社人間、長い間、死んでいた。
(1965-1990)会社人間となり、絵画、音楽を忘れる。

(第3クオ-ター) 50~75才  単身赴任・定年、復活した、生き返った。 
(1990-1995)風景スケッチを、始めた。クラシックギターを復習して、人生の再スタートを模索した。


55~60才 (-1999) 仕事はほどほどに。風景スケッチとギターを楽しみとして、生きるようになった。人生を楽しむ ギターは、いわゆるクラシックギター古典音楽は止めて、Pops,歌謡曲、映画音楽、フォークなどを、求めた。


61才~ 定年後 風景スケッチと生ギターBGMのホームページを作成。

放送大学、ムサビ通信などで 勉強→哲学 美学 

放送大学
(2007年9月卒業) ムサビ通信 中退。


(第4クオ-ター) 75~100才 人生の終わりまで、二本杖で、ゆっくりと、生きたい。

78才現在 動きが悪い指で、演歌ギターに勤しんでいる。
小さな画材で、小さな生活絵日記を、楽しんでいる。
          
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Before Corona
81才になった。こんなに長く生きるとは。夢にも思わなかった。
神様の、お言葉に甘えて、もうちょっと、頑張ろうか。と思いきや。

With Corona
2020年春から、コロナという微細胞のため、地球の世界は一変した。

私自身の肉体も、一変。自分で自分の肉体が、制御不可能となった。
当然、ギター演奏は出来ない。覚束ない指で、スケッチは可能かもしれない。


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「私の体幹不具合のこと」(後期高齢者)(障がい者2級)(要・介護3) 
「病 名」 圧迫性頸椎症 腰部脊椎管狭窄症 「腰痛、両手足のしびれ」
「症 状」 座位置からの立ち上がりに、介助がないとできない。
最近、シルバーカーを、愛用しています。

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    (福祉教育セミナー 逗子市役所 2021-12-18

     
勉強会の模様。 自分の禿ちゃびんとシルバーカー。

        

After Corona
          
しかし、地球が、平穏になるまで、スケッチは、お休みするよ。

100才まで、
新しく探求することを、探求したいなー。(2021-11-30)


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100才まで、生きられたら、最高だ。

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