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      これからも誠実に生きます みおつくし27号
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人生の真実を究めるには、いろいろな道があるのでしょう。学問という方法でも、その中は多岐に渡っていて、どの道に入れば自分にとって、一番適切か分かりません。それぞれ全ての中に分け入って究めることは、ぼくの残り人生では、とても無理なのです。 究めねばならないことは、眼がくらくらする程、たくさん在ります。しかし、どれを選んでも、結局到達する境地は、同じような気がします。唯云えることは、学問のジャンルの中では「哲学」が最も基本的な方法で、世の中の真実を解明するジャンルであると、ぼくは考えています。 近時、哲学は昔のような面影がありません。実証主義の科学も究極なまでに、社会に浸透してしまっています。最近は、人類の自己勝手な科学による地球の改変が、地球そのものの破壊をもたらしていることに、気づきはじめています。


それでも、ヨーロッパ文明で生まれた科学に最大限の信を置いているのが、人類の現状です。科学そのものは、やはりヨーロッパ文明の哲学的な営みから生まれたのであり
根源は哲学にあると思います。

 
ぼくにとっての教養は、戦前から戦後にかけての幼少年期の教育の変遷で受けた、二面性が大きな要素であると思われます。 戦前のナショナリズムも根底にあると同時に、戦後の民主化教育で培ったヨーロッパ近代文明の影響が大きく、ぼくらの世代は、みな同じかもしれませんが、その二つが矛盾しあいながら同居しています。 それで今まで、自分がありのままの姿で、世間から理解されていないという思いを、絶えず持って来ました。有体に云えば、ある時には戦前の右翼風に、ある時には戦後の左翼風に見られて来たように思います。 在るがままの自分は、そんな極端な人間でなく、騙されてばかりのお人好しであり、ただ単に生きるのが下手な普通の人間であると思っています。 自分を取り巻く環境が、自分を哲学などに向かわせているだけです。
 

これまで、「誠実に生きるということを基本に生きてきたつもりです。」 ぼくには、誠実ということが、最大の徳であると思っていました。しかし誠実ということは、単純なものでないらしいです。

若い頃には、至誠というように命を賭して誠のために戦うという、幕末の志士に憧れたこともあります。自分の血の中に、武人の血がほんの多少とも流れていることを知ったこともあったのかもしれません。青年期特有のロマンティシズム的独我論、心の義に動かされたこともありました。その頃は、右翼風と取られていたのでしょう。

別の面で言えば、ぼくはかなりの自由人です。戦後の民主化教育で受けた素養が大きい。

日本では、個人を構成員とした市民社会というものがなく、在るのは
世間 という一種得体の知れないものです。ヨーロッパ近代市民社会と日本の世間とは、まったく別物です。ぼくは、所謂、世間との付き合いが上手くありません。ある場合は、極端に世間に合わせる行いが、必要以上に過敏であり、過剰に念入りであるので、かえってぎこちなくギクシャクしています。

世間では、こういう人間を
変り者と云いますが、ぼく自身は自分を最高のまとも人間と考えています。世間に流されないように、教養を積み哲学を知り、強い誠実な自己でありたいのです。


近代的な合理性の上でも、他者から一定の理念を、自己の内面にまで押し付けられると、それがどれだけ素晴らしいことであっても極端に反発したくなります。一個の自己として、あらゆる制約から自由でありたいと思います。

若い頃、一つの夢のような左翼思想が、世の中を席巻していた頃に、ぼくはそこからも自由であるように、内面で努力していました。マルクス・エンゲルスと同時に並行して、ロシアの歴史家ベルジャーエフとデンマークの思想家キェルケゴールを読んでいました。表面上は、マルクス全盛の世間に対して、話を合わせていたかもしれないので、左翼風と見られていたかもしれません。実際は、マルクスに信を置いていた訳ではありませんでした。

以後、キェルケゴールの、
「仮令、全世界を得たとしても、それが自分にとって何になるのか。」という言葉が、今日までも自己反芻する言葉となりました。世界の真実すべてを包まなくても良いので、小さくても一つの真実を見つけたい。


青年期から壮年期を、このような気持ちで過ごし、今は老年期となりました。


自分の生まれ育って、生活している日本は、本当に美しい国だと思います。温暖な気候に恵まれ、縄文の頃からの自然崇拝を根底に、その後の大陸やヨーロッパからの影響も、すべて自らの内に消化吸収してしまい、独自の文明を築きました。

雑多の要素を見事に、融合した文明です。すべてに相対的で、表面上は寛容であるように見えます。しかし、原初には遠く南の大洋から渡って来た、開かれた民族で出来た日本人が、いつの頃からか島国の民になりました。閉鎖的な文明の中には、独特の美意識が醸成され、異を許さない排他性も生まれました。

日本文明は、ロゴスの理知よりもケガレの美意識を優先します。そこには相対論であるように見えて、ヨーロッパや中国の文明とは別種の非寛容性が存在します。少しでも、ヨーロッパ知の教養や哲学に触れれば、日本的なるものに多大なる齟齬を感じると思います。明治以後、そのような風土に疑問を感じ、日本を逃れヨーロッパに渡った文学者や思想家などが居ました。結局、彼らは帰国した後は、志を曲げて日本の風土に溶け込んだ論を展開したり、個人の世界に沈潜したのです。

近時、若い日本人など、地球上の都会といはず砂漠でさえリュック背負って渉猟している姿を見るにつけ、羨ましいと思い、日本も捨てたものでないと思います。
せめて思いだけでも、固定観念に捉われず、ちっぽけな日本人であるよりも、世界を駆け巡る自由な地球人でありたい。

教養という程度では、本当に、日本が良いのか、ヨーロッパが良いのか、勿論、結論できる程のことは、在りません。

日本の独特の美意識に根ざした、八百万の真実が在るのか、ロゴス中心のヨーロッパ一神の真実が在るのか、当面は、
自然 というキーワードを巡って思考したいです。日本の自然崇拝の自然、ヨーロッパ文明のルソーの自然状態など、根源的な課題を勉強したいです。

その後も、真実を求めて、これから生きている間ずーっと勉強を続けたいと思います。


「真、善、美」という人類の究めるべき目標の中で、ぼくにとって一番親しめるのは、美であるけれど、美を通して真と善が得られることが可能かどうか、真、善、美をこれからも模索したいと思います。

希望があるや無しや、人類は哲学という形で、これからも問い続けることになるでしょう。

ぼくも同じ作業に加わって、一生を終えたいと思います。

(2007.9.10)
(2009.9.13 再掲載)
 

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